ハマのサクラといえば、忘れちゃいけないのが根岸森林公園
根岸駅から不動坂を登ってくると、ユーミンの歌で有名な「ドルフィン」
ドルフィンを右手に、正面にNEGISHI BASEの消防署の裏が日本初!
西洋式競馬場の跡地「根岸森林公園」だ
正式には、横浜競馬場というが、所在地から根岸競馬場の名で親しまれてきた
此処には約350本の桜が植えられており、ソメイヨシノ、その後、八重桜と、
2度にわたって花見を楽しむことができる。オイラの秘密基地から徒歩3分!
花見に時期は、大勢の花見客で賑わう
さて、時は、幕末の1866年
横浜の外国人居留地における娯楽施設として整備が進み、翌年から競馬として
使用されてきた横浜競馬場
当初は居留外国人の組織である「横濱レース倶樂部」などにより運営されてきたが、
1878年、「横濱ジョッキー倶樂部」が設立され、1880年には日本レース・クラブに
改称され、それまで居留外国人のみだった入会が日本人にも認められた
1905年、明治天皇から御賞典が下賜されエンペラーズカップ(現在の天皇賞)が開催、
また、1939年からは横濱農林省賞典四歳呼馬(現在の皐月賞)がそれぞれ創設された
とくに、明治天皇は競馬がお好きであったようで、複数回、この地を訪れている
しかし、大戦の激化に伴い、横浜競馬の開催は1942年限りで休止された・・・
翌1943年6月10日には馬場を閉鎖して旧帝国海軍に売却し、徴用後は、スタンドに
文壽堂の印刷工場が置かれ、その従業員宿舎跡地にオイラの秘密基地がある
さて、日本競馬会は、将来的な競馬復活に備え、終戦直後の1945年8月29日、
政府に対して横浜競馬場の払い下げ願いを行った
しかし、日本が降伏文書に調印した翌日の9月3日、他の市内軍用施設と同様に、
進駐してきた連合軍(実質はアメリカ軍)に接収されてしまう・・・
1964年に至ってようやく一部施設の接収が解除され、そのほかの土地の大部分も
1969年にアメリカから日本政府へ返還を受けた
1973年になって政府から日本競馬会の後身である日本中央競馬会に払い下げられ、
30年ぶりに横浜競馬場は競馬会の所有となった
しかし、接収されていた年月のあいだに、周囲の住宅地化や他の競馬場の近代化・
大型化が進んでおり、返還された横浜競馬場を近代的な中央競馬の開催施設として
復活させることは現実的選択ではなくなっていた
結局、公園として整備されることになり、横浜市所有の根岸森林公園と日本中央競馬会
所有の根岸競馬記念公苑、1977年には馬の博物館が設けられ現在に至っている
さて、画像にある遺構は、アメリカ人建築家J・H・モーガンによって設計され、
1929年に竣工した一等馬見所が現在も遺されている
横浜競馬場の遺構として唯一現存する一等馬見所は2009年に経済産業省によって
近代化産業遺産に指定されるも、米軍の接収地内にあり、立ち入ることはできない
が、2015年末をもって根岸米軍住宅をはじめ、接収地が返還されることが決まっており、
住人のひとりとして、今後、跡地がどうなるかが楽しみであり、心配でもある・・・
画像は、馬の博物館隣接する馬房に通じる「桜坂」