濱の与太郎

祭り!ベイスターズ!なにより、ヨコハマが大好きだぁ~

日本の古典芸能を堪能する 最終回

2016年10月25日 | ひとりごと・・
さて、前回までの“おさらい”をしておこう
琵琶法師・・・・盲目のお坊さん(男)で、琵琶の門付を生業とするもの
三味線と胡弓・・中国の三弦という楽器をベースに、琵琶法師が改良して誕生したもの
門付・・・・・・地方を巡業して琵琶、三味線、胡弓などの芸能を生業とするもの
瞽女(ごぜ)・・ 盲目の女性で、三味線や胡弓の門付を生業とするもの
旦那・・・・・・面倒見のいいお金持ち(パトロン)

この5つのキーワードを思い出してくれるとオイラもありがたい
さて、前回は、越後瞽女の佐藤千代さんが登場したところで「つづく」となったが、

千代さんとは、「越中最後の瞽女」と呼ばれた女性である
明治17年(1884年)立山町座主坊の宿坊「杉本留次郎の4女」として誕生するも、
生家は貧乏人の子沢山、千代さんは養女として出される

千代さん7歳のとき、養女先で天然痘が原因で失明してしまう
これが彼女の転機となる。富山といえば加賀百万石。前田利家の時代から民政が行き届き、
盲目の女子には歌や踊りの座敷芸を習わす「座」の制度が整備されていた

この座で千代さんは「瞽女」としての教育を受ける
その結果、抜群の記憶力!そして、事声が澄み切っていて綺麗であったこと!!
彼女は幼くして人気の高い瞽女となり、多くの旦那衆から可愛がられたそうだ

そのうち、千代さんは、自分の声が胡弓の響きに合うってーことに気付く
そこで、三味線の代わりに胡弓を伴奏楽器に代えてみるとさらに評判が上がったそうだ
ますます胡弓奏者として腕に磨きをかけた千代さんだった

実のところ、晩年、千代さんは、
「切れるかもしれない三味線より最初から胡弓を抱えて旅にでたほうが安心」
「胡弓は三味線より小さいので持ち運びにも容易です」と語っていたそうだ

この千代さんの引く胡弓に影響を受けた男がいる。輪島市出身の松本勘玄である
彼は、家業の漆塗りを継いだが、16歳で大阪に出て、浄瑠璃、長唄、小唄、そして、
三味線などあらゆる芸事を取得する

やがて、旅芸人一座とともに全国を行脚するようになった勘玄であったが、
旅先の八尾が気に入り、所帯をもって八尾に定住するようになる
そこで出会ったのが佐藤千代さんである

千代さんは旦那衆の招きで八尾に滞在、当地で胡弓の流しをしていたそうだ
静寂の彼方から ゆるりゆるりと流れくる胡弓の調べ・・・

これに衝撃を受けた勘玄、持ち前の遊び人の血が騒ぐ!!風の盆と胡弓・・・
彼は迷わず胡弓の習得に日夜励んだという。その結果、明治30年代のはじめごろ、
おわら(風の盆)に胡弓が取り入れられ、今に至っている

そして「風の盆」といえば踊りも忘れちゃいけない
昭和のはじめ、東京三越で「富山県物産展」が開催されることになった
その目玉として「風の盆」が選ばれたそうだ

そこで八尾の旦那衆は懇意にしていた踊りのお師匠さんに踊りの監修を依頼する
依頼したのは若柳流初代「若柳吉三郎」である

こうして、若柳は40日間八尾に長期滞在、八尾の情感を体に溜め、熟させた結果、
「四季の踊り」が仕上がり、東京三越で初めて芸者衆が披露!喝采を浴びたそうだ
これが「風の盆」がいまに至る経過であるが・・・・

勘のいい人はすでに気付いたはず
風の盆を世の中に広めたのは千代さんでもなく、勘玄でもない
初代若柳のお師匠さん?いや、東京三越でもない

風の盆をはじめとする「日本の古典芸能」をいまに伝えられたのは旦那衆のおかげである
旦那衆なくして古典芸能はもちろん、古(いにしえ)からの神事も伝承されなかったはず
お人好しで、多少の放蕩癖があってもいいじゃねーか!!

千代さんを八尾に招いたのも旦那衆
勘玄が八尾に居ついた最大の理由・・・八尾には多くの旦那衆が存在していたから
そして、旦那と初代若柳流との付き合い

これも「縁(えにし)」である
時代は変わっても旦那衆の存在は不可欠だと思う
ただし、きょう日の旦那衆はときに“見返り”を求める輩もいる
本当の旦那衆とは、けして“見返り”など求めることはしない

さて、来月、神楽坂で開催される「胡弓奏者“優美子さん”のライブ」
お代は無料!!甲斐性のないバカ旦那!?でも熱烈歓迎!!!!
たまにゃあ~~日本の古典芸能ってーものに触れてみては???

日本の古典芸能を堪能する その3

2016年10月25日 | ひとりごと・・
いまでは全国にその名が知れている富山県八尾の『おわら風の盆』
そのはじまりは元禄15年(1702年)と云われている
時を同じくして、オイラのご先祖様は命がけで吉良邸に討ち入ったのである

当家のご先祖である間瀬久太夫正明(ませきゅうだゆうあさあき)
役職は赤穂藩の大目付。大石内蔵助の懐刀であり、非常に厳格正直な人柄だったそうだ
先手必勝!!言われる前に行っておこう!!そうです!!オイラとは真逆の性格!!

また、久太夫の従兄である小野寺十内、甥の中村勘助、そして、嫡子の孫九郎と、
四七士のうち4人が身内であり、結果、見事に主君の仇を討つことができた
あと1か月も過ぎれば「赤穂浪士」「討ち入り」の時期だね・・・

さて、話を「おわら風の盆」に戻す
八尾は、昔から売薬用紙の販売、養蚕などで繁栄した町である
そのため、町には財を成した“旦那”が多く存在していた

つまり、財布を持たず、夜更かしが大好きなのが旦那衆・・・
こう聞けば、ただの能天気なオヤジたち・・そう思いがちになるが、
この旦那衆がいたからこそ!“風の盆”が後世まで受け継がれ、現在に至っている

文献を見ると、おわらは他の民謡と同様に、はじめは唄だけのものだった
つまり、元禄15年の「風の盆」は民謡だけが披露されたってーことになる
これに楽器が入り、踊りが入って、いまのスタイルが完成したのが昭和初期!!

まず、風の盆の地方(楽器)について検証してみる
三味線と胡弓が欠かせないアイテムで、町によっては太鼓も使用される
しかし、地方に胡弓が加わったのは明治以降のことである

胡弓と風の盆・・・・
これに欠かすことができないのが「瞽女(ごぜ)」という漢検にもでない言葉
瞽女とは、目の不自由な女性芸人のこと。先に書いたが、三味線や胡弓を生業とし、
門付(巡業)で生計を立てていたひとである

とくに、娯楽の少なかった北陸・信越地方における瞽女の人気は絶大なものがあり、
江戸のAKBともいえる存在だったそうだ。となると、流石に瞽女の総選挙はなかったが、
指原みたいなセンター的存在の瞽女もいたそうだ

そのひとり、越後瞽女の佐藤千代さんなくして「風の盆」を語っちゃいけない
つづく・・・

旦那(だんな)

2016年10月25日 | ひとりごと・・
日本でも馴染み深い外国語のひとつに“サンスクリット語(古代インド語)”がある
とくに、仏教とは深く関係しており、般若心経など“お経”は、サンスクリットを音訳、
それを漢字表記にし直したものである

そのため、仏教用語の音訳された言葉が、そのまま日常語化しているものもある
「僧」、「盂蘭盆」、「卒塔婆」、「南無」、「阿弥陀」、「仏」などが代表的なものであり、
一見すると仏教とはなんの因果関係もなさそうな「旦那」、これも本来は仏教用語

旦那(だんな)は“ダーナ”というサンスクリット語を音写したもの
ダーナには、「贈る」「与える」の意がある。つまり、仏教でいう「お布施」「施し」
本来、旦那とは、お寺さんが使う言葉で、「施主」「檀家」といった意味合いがある

しかし、いつの日か、「お金をくれるひと」「面倒をみてくれるひと」ってーことで、
つまり、パトロンのように生活の面倒をみてくれるひと=亭主(主人)となった
オイラの場合、甲斐性がなく、どちらも当てはまらないので「旦那」とは呼ばれない

さて、オイラがもつ“旦那”というイメージは「亭主(夫)」ではなく、大店の主人、
地域の祭りや社会的行事を仕切るひと。なかでも、“顔役”と呼ばれる有力な町衆、
田舎では豪農などが“旦那”だと思っている

それじゃ、どういう人が旦那なのか?
あるとき、オイラがこのひとこそ「旦那」と認定!?する某旦那に聞いてみた
すると、

「旦那?旦那ってーのは、財布なんか持ったことねーんじゃないか!?」
「本当ですか?財布を持たないですか?」
「そりゃそうだよ!!なくったって信用ってーものがある」
「信用があるから何軒でも飲んだり食べたり遊んだりできるってーのが旦那だろう」

聞けば、自分で勘定など払ったことがないという
後日、店の番頭が旦那の勘定(ツケ)を貰いに旦那の会社に来るそうだ
すると、金庫番は、何の疑いもなく「いつも旦那がお世話になります」と支払ってくれる

これが日常であり、旦那衆は自分がどれだけ金を使っているのかなど知りはずもない
また、知ろうともせず、夜な夜な町へと繰り出していく・・・
もはや、こうした旦那は“ヤンバルクイナ”よりも希少性が高いのは言うまでもない