さて、前回までの“おさらい”をしておこう
琵琶法師・・・・盲目のお坊さん(男)で、琵琶の門付を生業とするもの
三味線と胡弓・・中国の三弦という楽器をベースに、琵琶法師が改良して誕生したもの
門付・・・・・・地方を巡業して琵琶、三味線、胡弓などの芸能を生業とするもの
瞽女(ごぜ)・・ 盲目の女性で、三味線や胡弓の門付を生業とするもの
旦那・・・・・・面倒見のいいお金持ち(パトロン)
この5つのキーワードを思い出してくれるとオイラもありがたい
さて、前回は、越後瞽女の佐藤千代さんが登場したところで「つづく」となったが、
千代さんとは、「越中最後の瞽女」と呼ばれた女性である
明治17年(1884年)立山町座主坊の宿坊「杉本留次郎の4女」として誕生するも、
生家は貧乏人の子沢山、千代さんは養女として出される
千代さん7歳のとき、養女先で天然痘が原因で失明してしまう
これが彼女の転機となる。富山といえば加賀百万石。前田利家の時代から民政が行き届き、
盲目の女子には歌や踊りの座敷芸を習わす「座」の制度が整備されていた
この座で千代さんは「瞽女」としての教育を受ける
その結果、抜群の記憶力!そして、事声が澄み切っていて綺麗であったこと!!
彼女は幼くして人気の高い瞽女となり、多くの旦那衆から可愛がられたそうだ
そのうち、千代さんは、自分の声が胡弓の響きに合うってーことに気付く
そこで、三味線の代わりに胡弓を伴奏楽器に代えてみるとさらに評判が上がったそうだ
ますます胡弓奏者として腕に磨きをかけた千代さんだった
実のところ、晩年、千代さんは、
「切れるかもしれない三味線より最初から胡弓を抱えて旅にでたほうが安心」
「胡弓は三味線より小さいので持ち運びにも容易です」と語っていたそうだ
この千代さんの引く胡弓に影響を受けた男がいる。輪島市出身の松本勘玄である
彼は、家業の漆塗りを継いだが、16歳で大阪に出て、浄瑠璃、長唄、小唄、そして、
三味線などあらゆる芸事を取得する
やがて、旅芸人一座とともに全国を行脚するようになった勘玄であったが、
旅先の八尾が気に入り、所帯をもって八尾に定住するようになる
そこで出会ったのが佐藤千代さんである
千代さんは旦那衆の招きで八尾に滞在、当地で胡弓の流しをしていたそうだ
静寂の彼方から ゆるりゆるりと流れくる胡弓の調べ・・・
これに衝撃を受けた勘玄、持ち前の遊び人の血が騒ぐ!!風の盆と胡弓・・・
彼は迷わず胡弓の習得に日夜励んだという。その結果、明治30年代のはじめごろ、
おわら(風の盆)に胡弓が取り入れられ、今に至っている
そして「風の盆」といえば踊りも忘れちゃいけない
昭和のはじめ、東京三越で「富山県物産展」が開催されることになった
その目玉として「風の盆」が選ばれたそうだ
そこで八尾の旦那衆は懇意にしていた踊りのお師匠さんに踊りの監修を依頼する
依頼したのは若柳流初代「若柳吉三郎」である
こうして、若柳は40日間八尾に長期滞在、八尾の情感を体に溜め、熟させた結果、
「四季の踊り」が仕上がり、東京三越で初めて芸者衆が披露!喝采を浴びたそうだ
これが「風の盆」がいまに至る経過であるが・・・・
勘のいい人はすでに気付いたはず
風の盆を世の中に広めたのは千代さんでもなく、勘玄でもない
初代若柳のお師匠さん?いや、東京三越でもない
風の盆をはじめとする「日本の古典芸能」をいまに伝えられたのは旦那衆のおかげである
旦那衆なくして古典芸能はもちろん、古(いにしえ)からの神事も伝承されなかったはず
お人好しで、多少の放蕩癖があってもいいじゃねーか!!
千代さんを八尾に招いたのも旦那衆
勘玄が八尾に居ついた最大の理由・・・八尾には多くの旦那衆が存在していたから
そして、旦那と初代若柳流との付き合い
これも「縁(えにし)」である
時代は変わっても旦那衆の存在は不可欠だと思う
ただし、きょう日の旦那衆はときに“見返り”を求める輩もいる
本当の旦那衆とは、けして“見返り”など求めることはしない
さて、来月、神楽坂で開催される「胡弓奏者“優美子さん”のライブ」
お代は無料!!甲斐性のないバカ旦那!?でも熱烈歓迎!!!!
たまにゃあ~~日本の古典芸能ってーものに触れてみては???
琵琶法師・・・・盲目のお坊さん(男)で、琵琶の門付を生業とするもの
三味線と胡弓・・中国の三弦という楽器をベースに、琵琶法師が改良して誕生したもの
門付・・・・・・地方を巡業して琵琶、三味線、胡弓などの芸能を生業とするもの
瞽女(ごぜ)・・ 盲目の女性で、三味線や胡弓の門付を生業とするもの
旦那・・・・・・面倒見のいいお金持ち(パトロン)
この5つのキーワードを思い出してくれるとオイラもありがたい
さて、前回は、越後瞽女の佐藤千代さんが登場したところで「つづく」となったが、
千代さんとは、「越中最後の瞽女」と呼ばれた女性である
明治17年(1884年)立山町座主坊の宿坊「杉本留次郎の4女」として誕生するも、
生家は貧乏人の子沢山、千代さんは養女として出される
千代さん7歳のとき、養女先で天然痘が原因で失明してしまう
これが彼女の転機となる。富山といえば加賀百万石。前田利家の時代から民政が行き届き、
盲目の女子には歌や踊りの座敷芸を習わす「座」の制度が整備されていた
この座で千代さんは「瞽女」としての教育を受ける
その結果、抜群の記憶力!そして、事声が澄み切っていて綺麗であったこと!!
彼女は幼くして人気の高い瞽女となり、多くの旦那衆から可愛がられたそうだ
そのうち、千代さんは、自分の声が胡弓の響きに合うってーことに気付く
そこで、三味線の代わりに胡弓を伴奏楽器に代えてみるとさらに評判が上がったそうだ
ますます胡弓奏者として腕に磨きをかけた千代さんだった
実のところ、晩年、千代さんは、
「切れるかもしれない三味線より最初から胡弓を抱えて旅にでたほうが安心」
「胡弓は三味線より小さいので持ち運びにも容易です」と語っていたそうだ
この千代さんの引く胡弓に影響を受けた男がいる。輪島市出身の松本勘玄である
彼は、家業の漆塗りを継いだが、16歳で大阪に出て、浄瑠璃、長唄、小唄、そして、
三味線などあらゆる芸事を取得する
やがて、旅芸人一座とともに全国を行脚するようになった勘玄であったが、
旅先の八尾が気に入り、所帯をもって八尾に定住するようになる
そこで出会ったのが佐藤千代さんである
千代さんは旦那衆の招きで八尾に滞在、当地で胡弓の流しをしていたそうだ
静寂の彼方から ゆるりゆるりと流れくる胡弓の調べ・・・
これに衝撃を受けた勘玄、持ち前の遊び人の血が騒ぐ!!風の盆と胡弓・・・
彼は迷わず胡弓の習得に日夜励んだという。その結果、明治30年代のはじめごろ、
おわら(風の盆)に胡弓が取り入れられ、今に至っている
そして「風の盆」といえば踊りも忘れちゃいけない
昭和のはじめ、東京三越で「富山県物産展」が開催されることになった
その目玉として「風の盆」が選ばれたそうだ
そこで八尾の旦那衆は懇意にしていた踊りのお師匠さんに踊りの監修を依頼する
依頼したのは若柳流初代「若柳吉三郎」である
こうして、若柳は40日間八尾に長期滞在、八尾の情感を体に溜め、熟させた結果、
「四季の踊り」が仕上がり、東京三越で初めて芸者衆が披露!喝采を浴びたそうだ
これが「風の盆」がいまに至る経過であるが・・・・
勘のいい人はすでに気付いたはず
風の盆を世の中に広めたのは千代さんでもなく、勘玄でもない
初代若柳のお師匠さん?いや、東京三越でもない
風の盆をはじめとする「日本の古典芸能」をいまに伝えられたのは旦那衆のおかげである
旦那衆なくして古典芸能はもちろん、古(いにしえ)からの神事も伝承されなかったはず
お人好しで、多少の放蕩癖があってもいいじゃねーか!!
千代さんを八尾に招いたのも旦那衆
勘玄が八尾に居ついた最大の理由・・・八尾には多くの旦那衆が存在していたから
そして、旦那と初代若柳流との付き合い
これも「縁(えにし)」である
時代は変わっても旦那衆の存在は不可欠だと思う
ただし、きょう日の旦那衆はときに“見返り”を求める輩もいる
本当の旦那衆とは、けして“見返り”など求めることはしない
さて、来月、神楽坂で開催される「胡弓奏者“優美子さん”のライブ」
お代は無料!!甲斐性のないバカ旦那!?でも熱烈歓迎!!!!
たまにゃあ~~日本の古典芸能ってーものに触れてみては???