羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

挨拶

2005年11月04日 11時31分58秒 | Weblog
 今日は、友人がカナダに近いアメリカの研究所に子連れ留学し、帰国したときのエピソードから。
 そこは北欧系の移民(前回の楓糖蜜のときとは違う街)が暮らす静かで小さな町だった。
 毎朝、彼女のよちよち歩きを始めたばかりの姫御が、家の前に立って、「おはようございます」と、出勤途中の大人や、登校するお姉さんお兄さんに、挨拶をする習慣を身につけたという。
 日本に戻ってからも、保育園に行く前に、家の前に立って
「おはようございます」 
 ところが誰一人として、答えてくれる人がいなかった。
彼女のがっかりの仕方は並大抵ではなかったと、友人が話してくれたのが、かれこれ20年近く前のこと。
20年前といっても、考えてみれば、日本では誘拐される危険だってあったかもしれない。
 今なら、もっと危険率が高くなっているから、そんな行動はもっての外である。

ところで、野口体操では、野口三千三先生の習慣で、始めと終りに正座で挨拶をしている。
大学の授業でも、「ここは日本なので」と前置きをして、同じ習慣を貫いている。
単位をもらわなければならない学生は、嫌な顔をせずに、正座で挨拶を交わす。聴講生の外国人留学生も、同じように正座を厭わない。
 ほんとうのところはどうなのか、尋ねたことがないので、わからないのだが。

 ところが、今年、初めての出来事が起こった。
 授業の最初の日、終りに挨拶をすると
「ありがとうございます」
 学生たちから、言葉が返ってきたのである。

 そのときの嬉しさは、言葉にならない。
 その話を、知人に自慢げに話をしたら
「武道をやっている学生が、何人か、いたんじゃないの」
「なるほどね~。武道なのね」

 そういわれてみると、武道をやっていたその知人は、教室に入るとき、そして教室から出て行くときに、一礼をしてから行動をおこしていた。
 これは「間」なのだ、とそのとき初めて気づいた。
 空間的にも時間的にも心理的にも、「間」をとる。そのことによって、呼吸が整う。
 身体表現をともなった挨拶は、「間」なのだ。
目を見て握手をする、あるいは礼をすることは、お互いの関係の「間合い」を感じとることだ。
 どのような距離をとったらいいのかを、なにげなく確認しあうことなのかもしれない。
 
 そういえば、「間が悪かった」という経験をしながら、大人になったなぁ~と、過去を振り返ると…青くなったり・赤くなったり、いや、今だってあるある。
コメント (1)
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