羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

手逆立ち考②

2005年11月14日 07時58分22秒 | Weblog
 逆立ちができた日の記録はない。
 でも、立てた日は嬉しかった。
 逆立ちの練習を始めた初期のころ、岩石のように重かった。
 でも、逆さになれたときは、喜びがこみ上げた記憶はしっかりと残っている。

「記憶は残る。記録は消える」といったのは、五木寛之氏だった。
 上の話は、それとはニュアンスは違う。でも、なんとなくこのことばを思い出したので書いてみたかった。

 さて、私が野口体操教室に通いはじめた1975年当時、野口三千三先生は60代だった。そのころは、レッスンの最後に、必ず逆立ちの時間をとっておられた。
 壁を使ったいろいろな逆立ち。床で包助されながら立つ逆立ち。二人の包助者の間を行き交いながら立つ逆立ち。立っている人の背中側に寄り添って立つ逆立ち。スキップから立つ逆立ち。ひねって回転しながら立つ逆立ち。渦巻き逆立ち。エトセトラ。。。。。。

 目の前で繰り広げられる逆立ちの数々に、気持ちが暗くなった。
 自分には、一生、こんなに楽しそうな逆立ちは無理だろうと思えるからだった。
 それまで逆立ち経験は、まったくなかった。
 逆立ちは夢のまた夢。

「あんな風にできたら、さぞ気持ちいいいだろうな」
 そうは感じるが、羨ましいという思う気持ちにはなれなかった。
 自分にはまったく関係のない世界のように思っていた。
 むしろ、なぜ、ここに迷い込んでしまったのか、という思いが強かった。つまり、できる可能性はないと暗澹たる気持ちになっていたのだ。
 
 細かな経緯は、いずれ書くとして、そうした私が、まっすぐな逆立ちができるようになったのだから不思議だし、夢が実現すると夢でなくなる。
 
 はじめはやっぱり重かった。だんだんに軽くなっていったと思う。
 野口先生の包助は、上へ引き上げてくれたのだと思う。
 その上がっていく感じがつかめてきたら、「上下方向」「鉛直方向」を教えてくれるだけに変わっていった。
 拘束しない。
 でも、タイミングよく方向を教えてくれる。
「こっちだよ。上の方向は…」
 促されるままについていくと、まっすぐ逆さまになれるのだった。
 
 野口先生の逆立ちの指導は、人生の極意だろう、と今でも思う。
 
 ●束縛しない。
  でも、危険は避けるように仕向けてくれる。
 
 ●主張はする。
  でも、その意見を受け入れるか受け入れないかは、相手に任せる。

 ●逆立ちは、恐かった。
  でも、恐さをごまかさない大切さを教えられた。

 ふわっと腰の中身が浮き上がったときの気持ちよさは、格別だ。
 ふんわりと足が僅かな左右時間差で、柔らかく放り上げられたときの気持ちよさは、えもいわれぬ。
 自分の体重が消えてしまうような軽さを味わっている。
 浮遊感というと誤解があるかもしれないが、あえて「浮遊感」といいたい。
コメント (1)
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