羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

野口体操との出会い3

2005年11月29日 08時26分59秒 | Weblog
 漢字は、象(かたち)と音と義(意味)をもつ、世界でもまれな文字である。
 そして、古代象形文字の命が、現代まで脈々と流れているまれな文字でもある。
 
 約3500年前といわれる中国・殷の時代の文字は、「政(まつりごと)」というべき政治と宗教が一体になった世界を象づくっている。
 当然、当時の価値観がすべてに反映され、風俗・習慣・自然観・神と人の関係・為政者と奴隷の関係、国家のありよう、異国との関係といった宇宙と人間世界が、見事に描きだれている文化史であり文明史でもある。
 
 漢字を単に「記号としての文字」として読み解くだけでは不十分だと考え、とくに宗教観を含めたところから全世界的な全宇宙的な視点から、研究をすすめておられたのが、白川静氏の「文字学」だということを、野口先生は力説しておられた。

 現在、使われている漢和辞典にある「部首」は、殷の時代に記された「甲骨文字」に、そのほとんどを見出すことができる。

 1970年代、本格的に字源に遡って研究された一般向きの書籍は非常に少なかった。野口先生は、来る日も来る日も、漢字の字源を探り、やまとことばの語源を探る作業を、繰り返し続けておられた。文字に寄せる、ことばに寄せる、思いがいちばんの盛りのときに、私は野口体操に出会った。

「僕にとって、文字やことばが、昔、こういう意味を持っていたということと同時に、今、ここに、生きる自分のからだの内側で、身体感覚と結びついた実感のある文字・ことばとして生きてくれるかということが、いちばん大切なことなのです。
 ですから、他人がなんと言おうと、最後は、自分にとっての意味を見つけ出すことが、字源・語源探求をする僕にとっての作業なのです」

 真に言語哲学としての「文字学」「やまとことば学」なのである。
 野口三千三独自の探求の仕方だった。それを学問といわなくても、一向に差支えがないのが、先生の生きる姿勢だった。
 
 自分にとっての「文字(甲骨文字)」自分にとっての「和語(やまとことば)」であることが、野口体操と結びつく重要な要素なのである。それには、殷の時代の宗教観や自然観、社会をどう見るのか、という視点は欠かせない。
 
 文字を解体する、ことばを解体する。いわゆる西欧的な分析科学とは、一味も二味も異なった独自の解体作業なのである。アルファベットの世界観ではない。解体しさらに解体し続けても、象・音・義が失われない。むしろ本質が生きる象・音・義が浮き彫りにされる解体作業なのである。
 自然がフラクタルであるように、漢字の世界は、「文字のフラクタル」なのである。野口先生は、そのことに無意識の層で気付かれたのだと私は思っている。
 
 それが昨日のブログ表現だった、と今朝になって気がついた。
コメント (2)
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