昨日書いた杉戸発言を野口三千三先生の「ことば観」と照らし合わせてみたい。
ある状況のなかである人間関係のなかで、ある言葉を選んでしまった・選ばなかったことによって引き起こされる結果に対して、その言葉がどのように働いたかを自覚できる能力が大切である、と杉戸さんは語る。
たとえば敬語は、時に人と人の距離をつくることがある。「こんなに遅くまでどちらにいらっしゃったんですか」と冷ややかに妻に聞かれた状況を想ってみる。これはカッとなって「こんなにおそくまで、どこにいたのヨ!」とむき出しに問いただされるより怖い状況である。
敬語で尋問されることによって、それまで寄り添っていた関係が、遠ざかってしまうことになるから。
そんな例を挙げた。
さらにある言葉を選んでしまった結果、起こった状況に耐える時間を持ちたいともおっしゃる。
「敬語」を話すということは、かなり高度で微妙な人間関係をつくりだす文化なのである、と私は杉戸さんの話を受け止めた。
そこで思い出されるのは、野口三千三先生の『原初生命体としての人間』第五章ーことばと動きーに書かれていたことである。
『ことばについての私の発想は「自分にとってことばとは何か」ということだけである。ことばはあくまでも自分自身の内側の問題(認識・思考・創造)であって、自分自身を確認するためにあるのだ』
野口先生にとってことばはコミュニケーションのツールではない。コミュニケーションとしての言葉にしても、自分自身の実存を確認する一つだと捉えておられる。
動きの本質は「内動」にあると同様に『ことばの本質は独り言(独白・内言)にある』という。
ぜひ、第五章をお読みいただきたい。
杉戸さんの言わんとするところと、まったく同じではないが、共通する言葉への姿勢が読み取れる。
それは次のところにある。
『言葉を大切にするということは、ことばを選んでしまった後で、(動きを選んでしまった後で)そのことば(動き)をいくら大切にしても、もう遅い。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前の原初情報の段階を大切にしなければならない。……何かを選ぶということは、それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。』(『原初生命体としての人間』第五章)
つまり発してしまった言葉に耐える時間というのは、何もしないというのではなく、野口先生が示されたこのことを具体的に自分がやるかやらないかにある。
上手くいえないが、「ことばを磨く」ということはこういうことだ。
平成18年度国語施策懇談会で語られた「敬語」は、コミュニケーションの言葉として人間関係を考えることだった。
そこで語られた「敬語」について理解するには、野口先生の「ことばと動き」の考えと照らしたときにより深まってくれる。『原初生命体としての人間ー第五章』で語られていることを消化酵素として混ぜ合わせることで、この懇談会全体を通して「いちばん難しくいちばん大切なこと」として語られた内容を理解する助けとなってくれた。
いや、野口先生の「ことば観」は、言葉にとって本質的・具体的なあり方を教えてくれることだと改めて認識を持つことが出来たと思っている。
つづく
ある状況のなかである人間関係のなかで、ある言葉を選んでしまった・選ばなかったことによって引き起こされる結果に対して、その言葉がどのように働いたかを自覚できる能力が大切である、と杉戸さんは語る。
たとえば敬語は、時に人と人の距離をつくることがある。「こんなに遅くまでどちらにいらっしゃったんですか」と冷ややかに妻に聞かれた状況を想ってみる。これはカッとなって「こんなにおそくまで、どこにいたのヨ!」とむき出しに問いただされるより怖い状況である。
敬語で尋問されることによって、それまで寄り添っていた関係が、遠ざかってしまうことになるから。
そんな例を挙げた。
さらにある言葉を選んでしまった結果、起こった状況に耐える時間を持ちたいともおっしゃる。
「敬語」を話すということは、かなり高度で微妙な人間関係をつくりだす文化なのである、と私は杉戸さんの話を受け止めた。
そこで思い出されるのは、野口三千三先生の『原初生命体としての人間』第五章ーことばと動きーに書かれていたことである。
『ことばについての私の発想は「自分にとってことばとは何か」ということだけである。ことばはあくまでも自分自身の内側の問題(認識・思考・創造)であって、自分自身を確認するためにあるのだ』
野口先生にとってことばはコミュニケーションのツールではない。コミュニケーションとしての言葉にしても、自分自身の実存を確認する一つだと捉えておられる。
動きの本質は「内動」にあると同様に『ことばの本質は独り言(独白・内言)にある』という。
ぜひ、第五章をお読みいただきたい。
杉戸さんの言わんとするところと、まったく同じではないが、共通する言葉への姿勢が読み取れる。
それは次のところにある。
『言葉を大切にするということは、ことばを選んでしまった後で、(動きを選んでしまった後で)そのことば(動き)をいくら大切にしても、もう遅い。ほんとうにことばを大切にするためには、ことばが選ばれる前の原初情報の段階を大切にしなければならない。……何かを選ぶということは、それ以外のものを選ばないということ、捨ててしまうということであるから、いったん選んだ後でも、選ばなかったもの、捨ててしまったものの中に、大切な何かが残されているかも知れないという慎重な姿勢がなければならない。』(『原初生命体としての人間』第五章)
つまり発してしまった言葉に耐える時間というのは、何もしないというのではなく、野口先生が示されたこのことを具体的に自分がやるかやらないかにある。
上手くいえないが、「ことばを磨く」ということはこういうことだ。
平成18年度国語施策懇談会で語られた「敬語」は、コミュニケーションの言葉として人間関係を考えることだった。
そこで語られた「敬語」について理解するには、野口先生の「ことばと動き」の考えと照らしたときにより深まってくれる。『原初生命体としての人間ー第五章』で語られていることを消化酵素として混ぜ合わせることで、この懇談会全体を通して「いちばん難しくいちばん大切なこと」として語られた内容を理解する助けとなってくれた。
いや、野口先生の「ことば観」は、言葉にとって本質的・具体的なあり方を教えてくれることだと改めて認識を持つことが出来たと思っている。
つづく