羽鳥操の日々あれこれ

「からだはいちばん身近な自然」ほんとうにそうなの?自然さと文化のはざ間で何が起こっているのか、語り合ってみたい。

人生の機微にふれて磨かれる「敬語」

2007年03月31日 05時22分07秒 | Weblog
 「敬語」の話を、そろそろ終わりにしたい。
 
 実は、毎年、この時期に行われる文化庁主催「国語施策懇談会」のお知らせを戴いているが、毎回出席できるというわけではない。
 今年は、融通のきく打ち合わせの予定が入っていた。そこで打ち合わせ相手を誘って懇談会に出席することができた。
 
 連日書いている「敬語」についてだが、まとまって話を聞くことで、今まで漠然としていた「日本語における敬語」の輪郭が、すこしだけ見えてきた。久しぶりに勉強をさせていただいたという印象を持っている。
 しかし、言葉というものは、知っただけではどうにもならない。
 つまり言葉は、人生そのものだからだ。
 
 4時間30分、それぞれの立場から話される言葉と内容は、多様性があった。一つのテーマ「敬語」を語るにしても、10人いれば10人の「敬語論」が展開される。

 こうした機会を持つと、帰宅してテレビを見ているときには、アナウンサーの敬語が気になってしまった。自分の言葉にも注意が向く。しかし注意が向いたらちゃんとなるのか、というとそうは問屋が卸さない。
 一応、日本語における「敬語の世界」の奥深さと他の言語にはない味わいがあることを知ったというところで、今回はとどまっているようなわけで……。(ちょっとトホホ状態なのであります)
 
 『敬語の指針』にまとめていく過程での苦労話にこそ、日本語のもつ素晴らしさが浮き彫りにされていて面白かった。面白いなどといってしまうと申し訳ないが、皮肉なことでもある。
 
 以下、知人にあてたメール最後の部分を読んでいただき、この話はおしまいにさせていただきます。

『ところでパネルディスカッションも佳境に入って、気がついたことをお伝えいたします。
 いくつになっても「敬語」は難しいのだけれど、人情の機微に触れる機会を持つことによって、自然に洗練されていくものに違いない。そうした人生の機微がわかる人の傍にいるだけで、敬語は自然に身についていくものなのですね、と……。
 場の雰囲気を直感する能力というものは、一日にして身につくことではないので、一生かかって言葉を磨く覚悟を持ちなさいと言われたような気がしております。

 しかし、それだけでは間に合わない。
 そのときに(注:日本語学・日本語教育学専攻)蒲谷宏さんの‘複雑でありながら明快・明快でありながら複雑’に、敬語について語ってくださった内容を宝物として自宅に持ち帰りました。(注:内容は、学問的な裏打ちがされた蒲谷敬語論で、著作もあり)

 敬語を考えることは来し方を振り返ることになってしまい、青くなったり赤くなたり、心が多少乱れております。
 なんとも収拾がつかないままでのメールを、お許しくださいませ。

 ありがとうございました。
 取り急ぎお礼まで。      羽鳥操拝』

 連日、上手く表現できない上にやたら長いブログに、お付き合いいただいた読者の皆様、ありがとうございます。
コメント
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