連日、18年度国語施策懇談会のテーマであった「敬語」をめぐる話を書いてきた。
今日は、懇談会のパネルディスカッションの席上、区立中学校長・村松由紀子さんの発言を聞いて、敬語を使う大人側に問題ありと考えさせらたことから。
村松さんによると、中学生の90%は、敬語をきちんと話せるようにないたいと思っている。実際には敬語を話せると思っている生徒は、50%以下だという。50%以下という数字には驚いた。もっと少ない、30%以下くらいかと予想していたから。
で、なぜ敬語を話せるようになりたいかと問いかけると二つの答えがかえってくるらしい。
まずは、部活において先輩に対してちゃんと敬語で話したいから。
二つ目は、入試の際に行われる面接で、ちゃんと教養のあるところを示したいから。
非常に実利的だが、まともな答えだと思える。人は多様な人間関係のなかで、その関係をよりよくしていくに当たって、「敬語」という言葉ツールの持つ意味を、中学生になれば知っているということなのだ。
そう思っていてもなかなか身につかない。
そこで、敬語は自然に身につくことだけに任せておかないで、学校教育や社会教育の中で、意識的に学ぶ必要があることを強調された。
そして、学んでからは日常生活の中で試しつつ身につける機会が与えられていることが大切だということが、村松さんのおっしゃりたいことだった。
ところがその機会を奪ってしまう出来事がある。
それは最近の携帯電話の普及であると指摘された。
今ではほとんどの中学生が携帯電話を持っている。このことは大きい。つまり、友人の家に電話をかけると、昔なら家族の誰かが電話を取る可能性がたくさんあった。お父さんだったり、お母さんだったり、お祖父さんお祖母さんはもちろん、自分より年上の誰かが出ることを予想しながら、電話をしたはず。その場合は、自然と「敬語」を使う気遣いというものが、全部が全部でないにしても育ったはずだ、という指摘だった。
指摘されるまでもなく、日常のさまざまなシーンで最近失われたものに「気遣い」がある。大人たちが面倒な気遣いをしない暮らし方をするようになてしまった。
敬語の話を書いているのに、なにやら「気遣いのすすめ」みたいな話になってしまうので、敬語に戻そう。
ということで、この4時間30分の話を聞き、配られた「敬語の指針」77ページの冊子を読みながら、文法を知ったからといって外国語を「読み書き・聞く話す」がすぐ出来るものではないことと共通の難しさを感じた。
さらに敬語には、地方ごとの「方言」における敬語、男女における敬語もある。 つまり社会生活のなかで複雑に絡み合った言語文化だという認識を持てば持つほど、難しくなっていく。
古代から連綿と続いている日本語の「敬語文化」は、身分制度・階級制度に支えられた発達してきた。戦後、アメリカ型民主主義思想がもたらされ、平等社会における新しい「敬語観」を打ち出そうと考えられた答申らしい。
しかし、実際は非常に難しい社会問題・人間問題にぶち当たって、この「敬語の指針」答申は《よりどころのよりどころ》という苦肉の言葉で、敬語の基本的な考え方や具体的な使い方を示すものというにとどまっている。
人が人と関係を持たずに生きることは出来ない。社会を無視して生きることは出来ない。たとえ言葉の形は敬語の体裁をとっていなくても、「いい感じ」を与える人と稀には出会うこともある。しかし、ほんとうに稀なことかもしれない。
不快感を与えない表現、その場にふさわしい関係を築くことが出来る表現が出来るようになるってことは、行き着くところ「その人がどのような生き方をしているのか」の問題に集約される。
昨日のブログに書いた野口三千三先生の『原初生命体としての人間』第五章「ことばと動きーへの思索を、答申で盛り込んでもらいたいとさえ思った。
表面を読めば、コミュニケーションとしての言葉を否定するかのような表現をとっている。しかし、ある表現がうまれてくる以前の「からだの実感」と「からだの直感」を、大切にする価値観というものを置き去りにしたところからは、ほんとうの意味での「言語文化」「敬語文化」は、育たないことを知ってほしい。
ここに軸足が置かれれば、身分制度・階級制度云々ではなく、人が人として生きる尊厳を尊重する自然な「ことば文化」が育つに違いないと思っている。
慇懃無礼にもならず、ぞんざいにもならず、ちょうどいい言葉遣いができるようになるというのは、やっぱり難しい。
言葉は一日にしてならずーだから人間生きているのが面白いのよね、とこのごろようやく思えるようになってきた自分を省みた一日だった。
*******
明日は、文化庁の知人に宛てた礼状を一部公開します。
実は、そのメール、添削して返却してほしい感じなの……で、あります。
今日は、懇談会のパネルディスカッションの席上、区立中学校長・村松由紀子さんの発言を聞いて、敬語を使う大人側に問題ありと考えさせらたことから。
村松さんによると、中学生の90%は、敬語をきちんと話せるようにないたいと思っている。実際には敬語を話せると思っている生徒は、50%以下だという。50%以下という数字には驚いた。もっと少ない、30%以下くらいかと予想していたから。
で、なぜ敬語を話せるようになりたいかと問いかけると二つの答えがかえってくるらしい。
まずは、部活において先輩に対してちゃんと敬語で話したいから。
二つ目は、入試の際に行われる面接で、ちゃんと教養のあるところを示したいから。
非常に実利的だが、まともな答えだと思える。人は多様な人間関係のなかで、その関係をよりよくしていくに当たって、「敬語」という言葉ツールの持つ意味を、中学生になれば知っているということなのだ。
そう思っていてもなかなか身につかない。
そこで、敬語は自然に身につくことだけに任せておかないで、学校教育や社会教育の中で、意識的に学ぶ必要があることを強調された。
そして、学んでからは日常生活の中で試しつつ身につける機会が与えられていることが大切だということが、村松さんのおっしゃりたいことだった。
ところがその機会を奪ってしまう出来事がある。
それは最近の携帯電話の普及であると指摘された。
今ではほとんどの中学生が携帯電話を持っている。このことは大きい。つまり、友人の家に電話をかけると、昔なら家族の誰かが電話を取る可能性がたくさんあった。お父さんだったり、お母さんだったり、お祖父さんお祖母さんはもちろん、自分より年上の誰かが出ることを予想しながら、電話をしたはず。その場合は、自然と「敬語」を使う気遣いというものが、全部が全部でないにしても育ったはずだ、という指摘だった。
指摘されるまでもなく、日常のさまざまなシーンで最近失われたものに「気遣い」がある。大人たちが面倒な気遣いをしない暮らし方をするようになてしまった。
敬語の話を書いているのに、なにやら「気遣いのすすめ」みたいな話になってしまうので、敬語に戻そう。
ということで、この4時間30分の話を聞き、配られた「敬語の指針」77ページの冊子を読みながら、文法を知ったからといって外国語を「読み書き・聞く話す」がすぐ出来るものではないことと共通の難しさを感じた。
さらに敬語には、地方ごとの「方言」における敬語、男女における敬語もある。 つまり社会生活のなかで複雑に絡み合った言語文化だという認識を持てば持つほど、難しくなっていく。
古代から連綿と続いている日本語の「敬語文化」は、身分制度・階級制度に支えられた発達してきた。戦後、アメリカ型民主主義思想がもたらされ、平等社会における新しい「敬語観」を打ち出そうと考えられた答申らしい。
しかし、実際は非常に難しい社会問題・人間問題にぶち当たって、この「敬語の指針」答申は《よりどころのよりどころ》という苦肉の言葉で、敬語の基本的な考え方や具体的な使い方を示すものというにとどまっている。
人が人と関係を持たずに生きることは出来ない。社会を無視して生きることは出来ない。たとえ言葉の形は敬語の体裁をとっていなくても、「いい感じ」を与える人と稀には出会うこともある。しかし、ほんとうに稀なことかもしれない。
不快感を与えない表現、その場にふさわしい関係を築くことが出来る表現が出来るようになるってことは、行き着くところ「その人がどのような生き方をしているのか」の問題に集約される。
昨日のブログに書いた野口三千三先生の『原初生命体としての人間』第五章「ことばと動きーへの思索を、答申で盛り込んでもらいたいとさえ思った。
表面を読めば、コミュニケーションとしての言葉を否定するかのような表現をとっている。しかし、ある表現がうまれてくる以前の「からだの実感」と「からだの直感」を、大切にする価値観というものを置き去りにしたところからは、ほんとうの意味での「言語文化」「敬語文化」は、育たないことを知ってほしい。
ここに軸足が置かれれば、身分制度・階級制度云々ではなく、人が人として生きる尊厳を尊重する自然な「ことば文化」が育つに違いないと思っている。
慇懃無礼にもならず、ぞんざいにもならず、ちょうどいい言葉遣いができるようになるというのは、やっぱり難しい。
言葉は一日にしてならずーだから人間生きているのが面白いのよね、とこのごろようやく思えるようになってきた自分を省みた一日だった。
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明日は、文化庁の知人に宛てた礼状を一部公開します。
実は、そのメール、添削して返却してほしい感じなの……で、あります。