薙刀 廣賀


薙刀 伯耆國廣賀天正六年
戦国期の伯耆国の倉吉において三田五郎左衛門家と共に栄えた、道祖尾家では最も高い技術を備えて信頼を得た勘助廣賀の、同門流中では遺例が少なく大変に珍しい、しかも健全な薙刀。廣賀一門も相州刀工の流れを汲んでいる。造り込みは、打ち合いを想定して元重ね厚く物打辺りの身幅を広めて刃先を鋭く仕立て、その一方で棟の肉を削いで刃の抜けを高め、反りを付けた鋒は鋭く斬る引き掻く突くの動作を容易ならしめる構造。地鉄は杢目交じりの板目鍛えでねっとりと詰み、流動感のある肌に微細な地沸が付き、鎬寄りに強い映りが立ち、さらに飛焼に絡んでおり変幻の趣。刃文は焼頭が不定形に乱れる小互の目に小丁子、逆丁子が交じって飛焼が顕著、帽子も激しく乱れて返り、激しい打ち合いを想定したものであろう焼の強い棟焼に連なる。匂勝ちに小沸を伴う明るい焼刃は、刃境に金線を伴う沸筋が杢状にあるいは稲妻状に入り、物打から帽子にかけては乱れと掃き掛けの中を金線が長く走る。刃中も乱れが強く、小足、飛足、葉が乱舞する。茎には永禄から文禄にかけて活躍した勘助廣賀の、特徴のある大振りの銘が刻されている。刃長一尺七寸弱、反り七分弱、元幅九分四厘、物打幅一寸八厘、鎬重ね二分五厘。覇気横溢の造り込み、そして地刃。□





薙刀 伯耆國廣賀天正六年
戦国期の伯耆国の倉吉において三田五郎左衛門家と共に栄えた、道祖尾家では最も高い技術を備えて信頼を得た勘助廣賀の、同門流中では遺例が少なく大変に珍しい、しかも健全な薙刀。廣賀一門も相州刀工の流れを汲んでいる。造り込みは、打ち合いを想定して元重ね厚く物打辺りの身幅を広めて刃先を鋭く仕立て、その一方で棟の肉を削いで刃の抜けを高め、反りを付けた鋒は鋭く斬る引き掻く突くの動作を容易ならしめる構造。地鉄は杢目交じりの板目鍛えでねっとりと詰み、流動感のある肌に微細な地沸が付き、鎬寄りに強い映りが立ち、さらに飛焼に絡んでおり変幻の趣。刃文は焼頭が不定形に乱れる小互の目に小丁子、逆丁子が交じって飛焼が顕著、帽子も激しく乱れて返り、激しい打ち合いを想定したものであろう焼の強い棟焼に連なる。匂勝ちに小沸を伴う明るい焼刃は、刃境に金線を伴う沸筋が杢状にあるいは稲妻状に入り、物打から帽子にかけては乱れと掃き掛けの中を金線が長く走る。刃中も乱れが強く、小足、飛足、葉が乱舞する。茎には永禄から文禄にかけて活躍した勘助廣賀の、特徴のある大振りの銘が刻されている。刃長一尺七寸弱、反り七分弱、元幅九分四厘、物打幅一寸八厘、鎬重ね二分五厘。覇気横溢の造り込み、そして地刃。□



