まむしの斉藤道三の居城(稲葉山城)で、後に竹中半兵衛が知略を使って攻略したりで、最後は信長が奪取して名を変え(岐阜城)、その頃から”天下布武”の朱印を用いる様になったとか。
当時の輸送の主力は舟運であった様で、ここはその要衝で有ったと思われる・・移動も陸路より素早かったらしく、信長に攻められた城主はこの川(長良川)を下って逃亡したのだそうだ。
写真の橋の上の矢印は二両連結バスで、将来新潟にもこんなバスが走るのでしょうか?
もう一つは鵜飼いの観光船の様です。
*ロープーウェーで昇りましたが、こんな高い所に造ったのは、きっと軍事的な要素と権力の象徴(見栄を張る為?)で有りましょう・・とても実用的とは思えないのです。
途中に井戸が有ったのだが、雨水を貯めていたのです・・上越の春日山城の井戸には水脈が有ったと思うのです。(何より必要なのは水でしょう)
ちなみに鉄筋コンクリートの建物です。