各地のガイドの交流会が昨日赤塚で行われた・・集合場所からバスで佐潟迄移動し、そこから地区のガイドの案内で豪農の館(ガイドの説明では富農とありました)中原邸を見学したのです。
前日は穏やかであったが、当日は手がかじかむ位寒かったのです。
途中のお寺の鐘だが、ガイドの説明では先の大戦中に爆沈した戦艦陸奥の砲塔を溶かして造られたとか。
多くの寺では戦争中には鐘は供出されていたのに、戦後は逆になっていたのですから驚きです。
中原家は漁業や水運業で財をなしたので家紋に投網の紋が使われているのだとか・・こう言う説明があるとまじまじと見てしまいます。
奥の部屋が明治天皇が昼食をとった部屋だそうで、右の写真では良く見ると一段高くなっています。
当時先頭が到着した時、最後尾はまだ弥彦に居たそうです・・私等も岩室の高島屋で説明する時には同じ説明をしています。(高島屋では休憩した部屋が残されています)
岩室から赤塚迄でも相当距離が有るので、千人弱(説明では八百数十人)のお供は弥彦~赤塚間(約16km)では相当ばらけてしまう事になります。
きっと最後尾は色々と後片付けかなんかしていて遅れてしまっていたのでは・・まあ、こう言う話は深く追求しない方がいいのでしょう!
会場(サンピア)に戻ってからは交流会となったのですが、他所のグループのパンフレットの豪華なこと!・・観光協会や市の観光課等行政が作成したもの。
我々のテーブルでは全てコピーでしたが、これでいいのです!手作りでどこからも指図されずに活動しているのですから・・と思っているのですが・・
*それにしても豪華です!この違いはどこからくるのでしょう?・・
*元教職の方が多かった様で○○先生の声が聞こえて来ました・・見れば遥かに年配の方々でしたがいまだに”元”が通用する(と思っている)のは議員に相撲界、そしてこの世界でしょうか?
リタイヤすれば皆ただの人ですよ! そして死んでしまえば皆骨になって区別がつかなくなるのです。
いや~Haya 赤塚佐潟はもの凄く寒かった! どうせならもっと暖かい時期にして欲しいと思ったのでした・・ガイドする方もされる方も同じ思いだったのでは?・・