今日はエル・バシャ氏のピアノ・リサイタルに行ってきた。彼の演奏に出会ったのは今年のラ・フォル・ジュルネ。マスタークラスの情熱的なアドバイスと次の日の息をのむようなすばらしいラフマニノフの演奏とがリンクし、彼の生演奏をぜひ聴かなければと思ったのだった。
プログラムは以下の通り。
アブデル・ラーマン・エル=バシャ ピアノ・リサイタル
2012年10月16日(火)午後7時開演 紀尾井ホール
モーツァルト:ピアノ・ソナタ第6番「デュルニツ」二長調K.284
ラヴェル:夜のガスパール「水の精」 「絞首台」 「スカルボ」
休憩
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第26番変ホ長調「告別」Op.81a
ショパン:ピアノ・ソナタ第2番変ロ短調「葬送」Op.35
アンコール
ショパン:ノクターン嬰ハ短調遺作
シューベルト:4つの即興曲よりOp.90-2 変ホ長調
エル・バシャ:スザンヌのために
前半にラヴェルが来てその後ベートーヴェン、ショパンが来るというところなど、プログラムの組み方から興味深く感じられた。そして一曲目のモーツァルトとラヴェルの間、ベートーヴェンとショパンとの間、舞台袖に一度も戻らなかったのも印象的だった。ピアノはベヒシュタイン。
モーツァルトソナタの出だしは重厚で立体的な印象。当時の曲は音量の差や使用されている鍵盤の幅も限られていたが、その限られた中で繰り広げられる宇宙を最大限に引き出そうとしていたのが感じられた。ダンパーペダルもたくさん使っていたが、細心の注意を払って踏みかえていたからだろうか、全く音の濁りがなくペダルの効果が最大限に発揮されていた。楽章間の間の時間をしっかりとっていたのは次の楽章へ移行するための心の準備を丁寧に行おうとしていたからだろうか。プログラムによると第3楽章の変奏曲の演奏は技術的にも高度な書法と書いてあったとおり美しく聴こえさせるのが非常に難しそうな曲だと感じたが、彼はそこでも磨きのかかった演奏を繰り広げていた。途中の短調ではじまる緩徐部分の美しさにはぞくりとした。少ない音でもここまで密度が濃く訴える力のある演奏ができるのだと感じた。
ラヴェルの夜のガスパール。モーツァルトよりも高い腕の位置から始まった「水の精」。いきなりとろけそうなピアニシモでどうかなりそうな雰囲気だったが、そのままどうかなりそうな演奏を繰り広げてくれた。あちらの世界にいってしまいそうな妖しくすれすれの感覚。崩壊寸前のところまでいきそうなぐらいアグレッシブに音楽を作り上げながらもしっかりとした軸足によって踏みとどまっていた。繊細なオブリガードも重厚な響きの音もその他の音もお手の物だと言わんばかりの幅広いパレット。スカルボだったか、低音で今まで聴いたことすらないようなタイプのもごもごとした音があり、この音に私の何かが奪われてしまうのではないかという予感に襲われた。ハーフタッチだろうか、独特の打鍵だったような気がする。とにかくこのような音をピアノで聴いたことはなかったといえそうな音だった。ピアノでも表現者によってはここまで多様な音を作ることができるのだと改めて感じ入った次第。ちなみにスカルボって3拍子の曲だったのですね。今まで圧倒されそうなすごい曲とすごい演奏という印象をもってでしかスカルボという曲を聴いてこなかったような気がしたのだが、エル・バシャは曲のある箇所であきらかにこの曲は3拍子の曲だと分かるように示してくれた。奥深い世界にダイブさせてくれながらも、曲の要や大切なことをしっかりと掌握して伝えてくれているという安心感が感じられた。
ベートーヴェンの告別。曲の構成を掌握した演奏だったが音ミスがちょっとあったのが残念。この曲を完璧に演奏するのは本当に難しいことだと思う。また彼のベートーヴェンを聴いてみたいと思った。
ショパンの葬送ソナタ。彼は他の作曲家とはまた違う視点からこの曲の魅力を伝えてくれた。聴きなれた楽譜とは違うところがあったが、これは彼の研究の成果だと感じた。第1楽章、がっちりと線が太く、しぶくて媚びのない演奏。この曲の野性的な力が顕な形となって出たような演奏で、心臓を素手でえぐられたような感覚だった。第2楽章でもそのような感覚になったところが何か所も。ショパンの音楽に彼の視点から真摯に向き合ってきたのがつたわってくる硬派な演奏だった。第3楽章はさらに研ぎ澄まされた感覚が伝わってきた。中間部の夢のような緩徐部分では涙腺が緩くなりそうだったし。。。その前後の重厚さは言うまでもなく。音の輪郭が明確に示されていて、指のコントロールが完璧になされているのだということが感じられる演奏だった。第4楽章は不気味な音の塊が投げ出され訳が分からず終了ということが多いような気がするのだが、彼はこの曲の拍子も分かるように、そう、訳が分かるように演奏していた。曲全体の不気味な感覚もちゃんと出しながら。実直にこの曲に向き合ってきたというのが演奏全体から感じられた。密度の濃い演奏だった。
アンコールも素晴らしかった。有名なショパンのノクターン。中間部は他の方の演奏にはないような洒落た遊び心が感じられた。極めて濃厚な音でなにかをちょっとずらしたような感覚。どこからこのようなセンスが出てくるのだろう。
シューベルトの即興曲Op.90-2を生で聴いたのは久しぶりだったが懐かしい気持ちになった。心が洗われそうな温かい演奏だった。
そして三番目のオリジナル。短いながらもなんて素敵なんだろうと思っていたら彼のオリジナルだったとは。リサイタルでなければなかなか聴けないオリジナル曲に出会えたのも大きな収穫だった。
5か月ぶりに聴いた彼の演奏は期待に応えてくれるものだった。彼の真摯で密度の濃い音楽への取り組みが感じられるものだった。じわじわと感動がよみがえってきている。まさに音の職人で表現者。ピアノってここまで奥深い楽器だったんだとまたまた感じ入ることに。新たに知り合った方とも感動を語れてよかった。これからの活躍がますます楽しみだ。今後も彼の演奏を聴き続けていきたいと思いました!