郊外で、美味しい家庭的な料理が楽しめるお店。
丁寧で、北欧の小さなおうちを思わせる店内がくつろぎます。
もっと、こんな時間を意識して作らねば、と思ったクリスマス前のミルク色の午後。
郊外で、美味しい家庭的な料理が楽しめるお店。
丁寧で、北欧の小さなおうちを思わせる店内がくつろぎます。
もっと、こんな時間を意識して作らねば、と思ったクリスマス前のミルク色の午後。
ずっとエクセルの勉強をしていたりして、忙しかったけど、クリスマスはやっぱり、楽しまないと! 毎年クリスマスケーキを持ってきてくださる友人から頂いたケーキと赤い実はドライフルーツの入ったフルーツティーで聖夜のお茶会を楽しみました。
場所は、例によって離れで。
これがケーキとお茶! どっちもとても美味しかった~♬
照明を消して、静かな部屋の中で、キラキラ✨輝きながら、駆けてゆくトナカイの群れ……これで、ノエルさえいれば言うことなしなのだけれど。
昨日は、中秋の名月の日だった。
毎日、車で雑用のため飛び回っているのだけれど、たまには季節の風雅を楽しむべく、夜、お月見をしながらお茶しましたです。
知人の方から頂いた、本物の手作りのハーブティーをウサギの模様のティーポットに入れ、茶器にそそぐと、まるで秋の穂のような金色のお茶が! 香りが何とも言えず、素晴らしい! お店で売っているハーブティーとは全然違う、深くて強い香り――そして、味もハーブの甘露を飲んでいるかのごとき、美味しさでありました。
しかし、一体、何のハーブだろう?
左側には、🐇ウサギや満月、秋の草むら、紅葉、薄などを模した干菓子に、御存じ、🐇のお饅頭で。
キッチンの窓から見える月を映したものの、どこか朧月夜めいておりますな。
お茶も、お饅頭もベリーグッドなお味……秋の月は、ゆっくり傾いて――いつか、お空に消えてゆくのでありましょう。
ノエルが亡くなりました。
この一週間ほど容態が悪く、先週の土曜日、病院へ連れて行こうとしても、裏庭の階段を上ることができなくて断念。
先生に、月曜日のお昼に往診に来てもらうことが決まっていたのですが、日曜日には手足を赤ちゃんの頃のように広げたまま、一日中、まったく動かず。 荒い息をして、食欲もなく、これがあのいやしんぼうのノエルとも思えない状態でした。
姪一家が訪ねてきた時、弱り切っていたはずなのに、首を上げ、しっぽをパタパタと動かしたノエル……しかし、それが最後でした。
夜になって、体を触ったり、マッサージしていても、なぜか下半身が固くなっているよう。それでも、「明日は先生も来てくれるし、相談もできる」と安心して、寝室に引き上げてしまいました。明け方の5時半前、母が眠っている私を起こしに来て、「ノエルが死んでる!」と一言。
キッチンに行ってみると、テーブルの前の床で、昨日とまったく同じ、手足を広げたポーズで亡くなっていました……どうして、一体……?
今月上旬に病院に行った時は、とても元気で先生にも、「状態を維持している。人間で言えば、ステージ2というところですね」と言われたというのに……。
体から力が抜けるようで、涙が止まらず、病院に連絡して、絨毯の上に遺体を置いてみました。ノエルハーブガーデンに咲いていた花をそばに生け、大好きだったクッキーもそばに置いて――ペット葬儀社の方たちがノエルを引き取りに来た時、家族だけでなく、近所の方たちも見送ってくれました。皆口々に言うのは、「ノエルちゃんは、とても可愛い子だった」
「愛嬌があって」
この子は、何度も家から脱走したけれど、近所の人たちも誰も怒らず、皆で協力して「ノエルちゃん、こっち!」と捕まえてくれたものです。 ノエル死すの知らせは、一つの事件として、あっという間に伝わってしまいました。
近所や我が家を訪れる人たちの間で、人気者だったノエル。
昨日の水曜日には、近所のNさんとIさんが、「ノエルちゃんに」とトルコ桔梗と白ユリの涼やかな花かごを持ってきてくださいました。
離れにノエルの祭壇を作り、これも母の亡き友人が作ってくれた刺繍の布の上に、キャンドル、ノエルの骨壷、写真、花などを飾ったのですが、その写真が、うまくアップロードできませんでした。
こうして、いろいろなことを済ませたというのに、ノエルがもういない、ということがまだ実感として湧きません。
そのくせ、悲しく、淋しくてたまらないのです。
いつもなら、夕食の時、キッチンに来て、皆がご飯を食べている時、「わたしも御相伴を♡」とテーブルの下から顔を出して、ねだるのがとても可愛かったのに……。
夜中に起きた時も、廊下にいたし、家じゅうや庭じゅうを自由に歩き回っていたので、ノエルの記憶や気配はしっかりと家にしみついています。
空を飛んでいるようなポーズで逝ってしまったのも、ノエルらしい――ノエルのことは、これからも生きている限り、折々に思いだすはず。
記憶とは、愛情そのものなんだと思うから。
2011.8.21~2024.5.13
今日も、パソコン教室に行ってきた。
覚えるべきことが多すぎて、そのスキルが今一つ使えないような不安に陥ってしまう。しかし、ツィッター(X)やらインスタグラムやらやっている人の多さに驚くけど、それらをフォローしたりして、新しい情報をピックアップするほど、皆時間があるのかしら?
不思議に思う。
今は電車に乗っても、老若男女問わず、半数以上がスマートフォンの画面を見ているし、そういう時代なのかな? LINEは確かに便利だけど……これらのデジタルコンテンツを一通り使っていながら、昭和の文学やその雰囲気を懐かしく思う私はすっかり時代遅れもいいところ。
でも、それでいいじゃないか。時代に迎合はしたくない、と思ってしまう自分を自覚します。
この本も、ひどく気に入って、大正期分が味わえる、東京の弥生美術館というところにも行ってみたいです。
あっ、その前に感想と紹介をしなければと言っていながら、まだでした……(-_-;)ごめんなさい。
ここ数日、ノエルの具合が良くありません。ご飯もあまり食べないし……。でも、昨日の夜中、突然、二階の私の部屋にやって来たのには、びっくり。夏の間、二階で寝ていたとはいっても、秋以降は階下の両親の部屋で休んでいたはずだったのに。
体が相当弱っていて、眠れないのか? と心配したのですが、私のベッドの下の床の上で、何とか眠れているよう。少し、ホッとしました。
上の写真は、十二年近く前、まだ一歳にもなっていないノエルと母をガーデンで写したものです。当時、我が家が『婦人画報』誌に載るという大事件があり、その時、取材に来られたカメラマンの方が写してくれたもの――母も、この時、七十歳くらいだったはずですが――あの頃は、皆元気だったなあ。
この間、動物病院へ行った時、病院中庭のドッグランで写したノエルの写真2枚。
そして、これが今日、門の前で横になり、往来を眺めるノエル。この姿が見られるのも、いつまでだろう?
肌寒い日で、風花が散っている中、身じろぎもせず、外を見ているノエル。この情景もいつかは、記憶の中に溶け込んでいってしまうのでしょうか……。
夕方5時に予約していた、総社の「だて動物病院」へ。一週間前の検査結果を聞くためだ。
ノエル、相変わらず、待合室ではしゃいでいる。なのに、診察室に通された時、先生から渡された病理検査結果には、最悪の結果が……。
ノエルが、悪性腫瘍であることがわかったというのだ。そんな……全身から力が抜けるようで、呆然としたものの、勇気を奮って、先生に今後のことを訊く。緩和療法しかなく、何を食べさせても良いとのこと。
「大型犬の平均寿命は長くなったと思ってましたけど、今、ゴールデンレトリバーの平均寿命は何年なんですか?」と私が問うと、先生は「十年というところですね」
そうか……暗澹とした思いで、病院を出ると、前に設けられた円形のドッグランに入り、これも円形に作られたベンチに腰掛ける。もう、すっかり暗くなっていて、ベンチの脇にはほの明るいオレンジ色の照明がつけられている。
ノエルは相変わらず、無邪気で、ふんふんと芝の匂いを嗅いだり、あちこちを見回っていたけれど、私の方は、胸がきりきり痛み、涙があふれて仕方なかった。
それでも、いつまでもドッグランにいるわけにもいかず、ノエルを車に乗せて、五重塔の黒い影や家々が時々見えるだけの、夜の山道を走らせたのだった……。
帰宅して、前のノエルが亡くなった時、メモリアルとして作った私家版の「ノエルの童話」をひろげてみる。当時の悲しさを思い出すと、また涙がこぼれてたまらず、その夜はほとんど眠れなかった。
今日も忙しかった。
愛犬のノエルが、特別な治療を必要とするようになったので、隣の総社市の動物病院まで薬をもらいに行く。その帰り、パティスリー「シェルブルー」で、ケーキとクッキーを買って、帰宅。
イチゴのタルトが、とても美味しい。
今日は、特別に良いティーカップをカップボードから取り出して、紅茶を淹れてみる。
あっ、やっぱりいい器で飲むと、気分がゆったりするような……ほっこりします。
数日前、この本をAmazonで入手して、100年前の時代風俗や女学生の生活を、実に面白く読んだのだが、その感想を書くのは、また後程。
今晩は、もうお休みします。
最近、人見絹枝に興味があります。
と言っても、今では知る人も少ないだろうなあ……。女子陸上黎明期の暁の星☆とでも言うべき存在で、日本最初の女子オリンピックメダリストであります。1907年生まれで、1931年に24歳の若さで世を去っている天才アスリートーーふと、どこかで見た写真で、「あ、この人いい顔してるなあ」と思ったのが、私が人見絹枝に興味を持ったきっかけでした。
1928年の第8回アムステルダムオリンピックで、「死の激走」と言われた800メートル走で銀メダルを取った写真が残ってますが、この感動的な場面も、もう百年近くも前のこと。人々の記憶からも、彼女のことはすっかりこぼれ落ちていると思っていたのですが、この間、NHKのEテレで「偉人の年収」というどストライクな番組があり、人見絹枝のことを取り上げていました。
こういう感じの人が「人見絹枝」に扮してました。この人、誰?
男性なんだろうけど、髪型とか横に留めたピンとか、人見絹枝をカリカチュアしてて、思わず、笑ってしまいました。白いブラウスに、エンジ色の胸元のリボン……百年前の日本女性の洋装というのは、こういう感じだったんでしょうね。
ちなみに、本物の人見絹枝は、こんなルックスの人。170センチの長身だったといいますから、150センチそこらが平均的身長だった1世紀前の日本女性の中では、目だっていたでしょう。そんな彼女が生まれたのは、岡山市福成の農村。家は農家でしたが、進歩的な考えを持つ両親の意向もあり、小学校を卒業した後、岡山県岡山女学校に通うことに。当時は、県下の才媛が集まる難関だったようです。
女学校時代は、テニスに熱中していたというのですが、足を踏み入れた陸上の世界でも、いきなり日本一、世界一の新記録を出すという天賦の才能を発揮しました。そんな彼女は、19歳の時、たった一人の日本人として、スゥエーデンのイェーテボリで行われた万国女子大会に出場しますが、そこでも最優秀選手に選ばれるなど、ヨーロッパの人々を驚かせました。
それにしても、この時代、たった一人で、ヨーロッパに乗り込んだ彼女。山口の下関から船で大陸へ渡り、シベリア鉄道でモスクワを経由して、スゥエーデンへ向かうのですが、その旅路は1か月という長さです。
これだけでも圧倒されてしまうのですが、当時の日本はナショナリズムの高揚が激しく、今のオリンピック選手など比べ物にならない、精神的重圧があったに違いありません。
実は、私が彼女に惹きつけられたのは大正モガの雰囲気が残る時代の面白さや、明治の女性の強さだけでなく、彼女の文章を読んだため。
実は、人見絹枝は、国語の成績が大変良く、文章を書くのが巧みでした。だから、陸上の練習をする傍ら、熱烈にスカウトされた大阪毎日新聞社で女性記者としても働いていたわけ。TVでは、絹枝の物まねをしてる人が、レトロモダンな部屋で、木の机に向かい、腕には黒いカバーを脚絆のようにつけてましたが、この時代は、本当に、こんな感じだったんだろうなあ……。
絹枝は、アムステルダムで金メダル候補だったにかかわらず、惨敗し、今まで一度も走ったことのない800メートルに出場して、雪辱を果たすしかなくなります。
残された日記には、彼女が重い心を抱きながら、レストランに入り、楽曲を演奏しているロマの人々に、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を演奏してくれ、と頼む場面が描かれています。しかし、その文章の鋭さや、ひしひしと胸に迫ってくるような心情描写。
思わず、これが書かれたのが、もう百年近くも前のことだということを忘れてしまいそうなほどに、絹枝の絶望や、力をふり絞る決意が迫真力を持って迫ってきます。
結局、何度もの渡欧の過労や激務のせいもあって、彼女は大阪大学病院で、乾落性肺炎のため、亡くなります。あまりにも短い人生や、その肩にのしかかった重圧を思うと、「すごいなあ」と思うと同時に、悲しさも感じてしまうのは、私だけでしょうか?
このマンガ版を買って読みましたが、面白かったです。
新年が明けた。
昨年終わりの二か月ほどは、めちゃ忙しく、気持ちにも余裕がなかったけれど、お正月のんびり過ごして、だいぶほっこりした気分になっている。
上の画像は、現在、御年88歳になられるアラン・ドロン。昨年末、ふとスマートフォンを開くと、ニュース画像に、彼の写真が載っていた。どういうことかな、と思ってみたら、ドロンの息子がSNSに上げた画像だとかで、ドロンがフランスの**(名前、忘れた)県の自宅で、息子たちと孫に囲まれて、キッチンでクリスマスだとかを祝っている、家族水入らずのシーンらしい。
ドロンは家族と一緒で、うれしそうというより、おだやかな表情で写っているのだが、彼が着ているセーターを見て、「あら」と思ってしまった。薄いブルーグレーのカシミアのハイネックネーターを着ているのだが、うちの家族が着ているセーターとそっくりなのだ。
よくあるシンプルなセーターとは言え、う~ん、何だか……。
それにしても、あの暗く、背徳的な雰囲気の美しさで、数々の役を演じてきたドロンが、すっかり年を取ってしまい、90近い高齢となっているなんて! 80過ぎると、美形も不細工も関係なくなってしまうのね……。
そして、ぽ~っとした顔つきで、写真に納まっているのを見ると、何だか可笑しいような、時の恐ろしさを痛感させられてしまうような気持ちになるのは、私だけ?