ずいぶん長い小説で、心理描写も執拗に描かれているのだが、それをものともしない面白さ。主人公の津田という男は、三十歳の会社員であるのだが、利己的で、贅沢で、少なからず卑怯なところもある、小説の主人公とするには、「ちょっと・・・」という人物。 彼の妻、お延も、賢い女といえばいえるものの、虚栄心やエゴイスムをあわせもった、津田と似たり寄ったりの人間像。 この二人に、親戚や会社の上司といった人間関係のしがらみが、容赦なく描かれるのだが、「金銭」に関することがこまかに描かれているのは、漱石の作品の特徴といえるかも。
なにせ、「道草」でも、主人公の養父が彼に、金をせびりにくるさまが、興味深くも、リアリズム満点の凄さで書かれているのである。 友人に貸したお金の金額なども、こまかにノートに記していたという漱石らしい一面かも? 文豪は、意外に金銭面にきっちりしていたのかな。
冒頭、痔の手術をした津田は、病院に入院し、そこに入れ替わり、立ち替わり、人々が出入りするのだが、昔の人たちの親戚関係というのは、ため息をつきたくなるようなうっとうしさである。 「うっとうしい」というのは、今の感覚からすることで、百年くらい前の日本の人たちは、こうした濃密な近縁関係を大切にし、それにどっぷりつかって生きることが、当たり前だったのかもしれない。 でも、津田もお延も実の両親ではなく、叔父夫婦に育てられており、それが互いに行き来があり、さらに津田の上司吉川夫妻も、お延の叔父と懇意、津田とお延の両親も、知り合いというのは、世間が狭いというか何というか・・・。
面白かったのは、津田の友人(?)小林の存在。「僕は、誰からも軽蔑されているんですよ」こう言い、自分を侮蔑しているはずの津田につきまとい、彼からお古のコートをせびったりする。「これで、この冬も生きていられるよ、ありがたいね」--この小林という人物、都落ちする自分に送別会がわりに、レストランでご馳走する津田からもらった餞別金を、居合わせた自分よりもっと貧しい友人に、津田の目の前でくれたやったりするのだが、あつかましさ・憎々しさもここまでくると、あっぱれという外ない。
津田とお延の夫婦関係が、似た者同士でありながら、今一つしっくりいかないのは、津田が結婚前の恋人清子の存在を隠しているためである。 ようやく退院した津田は、吉川夫人の指図(謀ごと?)で、とある温泉に向かうのだけれど(ここに、清子がいて、彼は彼女に会うよう夫人からもちかけられるのだ)、小説の終わり近くに描かれる、この温泉宿の描写が素晴らしく魅力的! 津田は、浴場に案内された後、部屋に帰るのに迷ってしまうのだが、幾段にも続く梯子段や廊下、傾斜地に複雑な形状で作られた宿は、幻想的ですらある。廊下に置かれた水飲み場では、琺瑯のタライが4つ置かれていて、そこにずっと水が注ぎ続けているのだが、こうした細部の描写も、どこか非現実な美しさを感じさせすらする。客のほとんどいない、山中の温泉宿は、夢と現実のあわいに存在しているのかもしれない。
ようやく会えた、清子。津田と彼女の再会から、ようやく何かの秘密が顕れそうになったところで、「明暗」は終わる--漱石亡き後、その結末を知る者は誰もいない。
この小説だけでなく、漱石の作品はほとんどが「三角関係」をモチィーフとしたもの。 鴎外などと違って、恋愛関係のエピソードはあまり聞かない漱石なのに、こうした主題の反復はどうしたことかしら? これも、「明暗」の結末と同時に、文豪の永遠の秘密となってしまった。