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先日、本当に久しぶりでミニシアターへ行ってきました。上の写真のドイツ映画「ある画家の数奇な運命」がどうしても観たかったのです。
そして、予感は外れず、とても素晴らしい映画! 文句なしに、2020年の今年観た映画のナンバー1と言ってよいほど。
数奇な運命、と銘打っている通り、ドラマチックで残酷で、しかも深い感動の残る映画。リアリティ溢れる虚構のドラマだと思っていたら、後で解説を読むと、現代美術界の巨匠ゲルハルト・リヒターの生涯をモデルにしたものなのですね。
しかし、この映画の成立そのものが謎めいている、監督のフロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルクは、映画化をリヒターに申し出たところ了承し、取材もOKされたものの、「何が真実で、何が創作なのか明らかにしない映画を作ってほしい」と頼まれたそう。
つまり、この映画はゲルハルト・リヒターの実人生をモデルとしながら、まったく別の若い芸術家が運命と闘争する物語となっている訳。ある意味、一筋縄ではいかない映画となっています。
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そして、なんといっても、主人公クルトを演じるドイツ人俳優トム・シリングがいい! 映画のスティール写真をはじめて見た時は、「なんだかレオナルド・ディカプリオを渋くしたような俳優だな」なんて思った、イケメン好きの私ですが、実際にスクリーンで見ると、もっと憂鬱で線が細そう。これが、ヨーロッパの味わいでしょうか。
時は、戦時中のミュンヘン。クルトは、若く美しい叔母エリザベートに憧れを抱いていますが、彼女は突然、精神の均衡を崩してしまいます。「統合失調症」と診断されたエリザベートは、精神病院に強制入院されてしまうのですが、当時はナチスの全盛時代。
ナチスがユダヤ人ばかりでなく、障害者や精神病者をも「必要ない者」として安楽死させたことは有名です。最初エリザベートは、断種手術を実行されるだけだったのですが、主任医師ゼーバンドの前で暴れた彼女は、ゼーバンドの判断で「安楽死」の判断が下されることに――。
この安楽死の場面は、ユダヤ人のガス室での殺人とまったく同じもので、エリザベートの最期のシーンは、思わず目を覆ってしまいたいほどでした。こんな残酷なことが、遠い昔には、朝パンを食べることと同じように当たり前に行われたんだ……現場のガス室が、リノリウムの床や真っ白な壁など、今の手術室や倉庫とそう変わらない背景だけに、よりリアルに迫ってきて、怖かったですね。
さて、成長したクルトは絵の才能を見出され、美術学校へ。そこで出会った叔母の面影を残す女性と激しい恋に陥ります。くしくも、叔母と同じ名前を持った彼女の愛称はエリー。
ところが、何と彼女の父親こそ、叔母を死に追いやった婦人科医ゼーバンド教授。彼は、戦後「安楽死殺人」の罪を問われるはずだったのですが、ソ連の高官の妻の命を救ったことから、何食わぬ顔をして現在の地位にありついているのでした。
ゼーバンドは、クルトを「虫がすかん」と忌み嫌いますが、ついにはエリーと結婚することを認めます。
そうしているうちにも、東側のドイツの芸術に違和感を抱くようになったクルトは、ベルリンの壁が築かれる直前、からくもエリーと一緒に西側ドイツへ脱出。そこで、貧しさと戦いながら、自分の芸術を生み出すために苦闘してゆくというのが全体のストーリー。
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ただ、見ているうちに疑問に思ったのだけど、クルトは自分の叔母の死に、いつ義父のゼーバンドが関与していると気づいたのだろう? この瞬間は、はっきり描かれていませんし、無口なクルトの心理が細かに描写されることもありません。しかし、彼はいつ気づいたとしても、ゼーバンドに向かって、面と向かって罵ったり、糾弾することもないのですね。
これは、エリーを愛しているから? 彼女とのつながりが断ち切られることを恐れて?
自分のオリジナルな表現を求めて、あがくクルト。彼がデュセルドルフの美術学校でキャンバスと向き合う日々で、ついにつかんだ方法――それは、写真の模写。模写でありながら、生きた感情を持って、見る者の心に迫ってくる絵画です。
発想の発端となったのが、戦中のドイツの安楽殺人を糾弾する新聞記事。それを自分と叔母が映っている写真と重ね合わせてみたのです。その時、ちょうどやって来たゼーバンド。
彼が絶句し、うろたえ、部屋から逃げていく様は、小気味いいほど。 これぞ、最高の復讐なるべし。何せ、ゼーバンドは自分の直属の上司であった男が安楽死殺人のかどで逮捕され、いつ自分に手が回ってくるか戦々恐々していいるところに、娘婿が自分の罪を知っていることを悟ったのですから。
この映画は、クルトが内向的な性格で、感情をぶつけるということがまるでないため、わかりやすいカタルシスは存在しないのですが、それでもラストシーンは本当に圧巻!
初の個展が大成功し、「君は大成する」と絶賛されたクルト。妻のエリーも生まれたばかりの我が子を抱いて、会場に来ています。
しかし、彼はその後、一人で街角を歩き、やがてバスの操車場へやって来ます。そして、バスの運転手に頼み、いっせいにクラクションを鳴らしてくれるよう頼む訳です。
ヘッドライトが光り、クラクションの鳴り響く中を、両手を広げ、目をつぶり、湧きあがってくる感情に身をゆだねるクルト――それは遠い昔、何十年も前、叔母のエリザベートが幼いクルトの前でやってみせたことなのですね。
まるで、叔母の命が、芸術となってクルトの中に甦ってきたかのような符号。いつまでも心に残る、素晴らしいエンディングでした。
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📓これが、クルトの妻エリー。父の罪を知らないまま、クルトをひたすら愛し続ける女性です。しかし、演じる女優がパウラ・ベーアと知ってびっくり。彼女は、フランソワ・オゾン監督の「婚約者の友人」のヒロインを演じた女優なのですが、この残酷で美しい、心を切り裂かれるようなミステリー作品は未だに強く、印象に残っています(最後が、ヒロインが「希望」というにもかかわらず、救いがない)。
モノクロ作品なのに、ところどころに濡れたように輝く光が感じられ、まるで夜の光と影を見ているような、美しい映画でした。