ダフネ・デュ・モーリアの「レベッカ」を読みました。数か月前初めて読んで以来、これでもう三度目。何度読んでも面白いのです。また近いうちに、もう一度読んでしまうかも。
私の好みのどつぼにはまった作品なのでしょうね。 これを書いた時、モーリアはまだ三十歳かそこらだったというのだから、この天才的なストーリーテーラーたるや恐るべしであります。しかし、そうでなければ、ヒロイン(多分、二十一歳かそこらだと思われる)の若さや未熟さ、そして一途さを描き出すことはできなかったかも。
「ゆうべ、またマンダレーに行った夢を見た。わたしは……」で始まる、ミステリアスにも心をそそらずにはいられない冒頭の文章。
そこから、若きヒロインと彼女の恋と、マンダレーという美しい名の館。そして、夫となったマキシムの前妻であるレベッカを巡る謎へと、見る見るうちに惹きこまれてしまう!
それにしても、不思議なのは、ヒロインの「わたし」の名前が、全編を通して決して明かされないこと。それに反して、今はもう死んでいるはずの前妻レベッカは、堂々と小説の題名とまでなっている――これは、たとえていえば、太陽と月のような彼女たちの位置関係を示しているものなのか?
華やかで残酷で、才能に満ち溢れたレベッカに反して、地味な野の花のような「わたし」の姿が浮かび上がってきそうなのですが、彼女の外見は――想像しにくいですね。金髪で、青白くて、どこかおどおどした物腰の、それでいて、ぶれない芯を持った女性というところでしょうか。でも、まるでもう一人の自分を見ているような親近感を感じさせるヒロインでもあります。
そして、何といってもこの小説で描かれた時代の優雅さ! 実は「わたし」がマキシムに出会ったのは、南フランスのモンテカルロ。そこで、「わたし」はお金持ちの(有名人大好きで、彼らの後を追いかけ回しては嫌われている中年女性)アメリカ女のコンパニオンとして雇われています。つまり、話し相手兼小間使いみたいなものですね。
こんな職業が本当にあったんだ……若くて、よるべない女性は、当時、こんな仕事についていたのでしょうか? 1920~30年代(多分)のモンテカルロの優雅で退廃的な雰囲気は、本当にため息がでてきそうです。ヨーロッパが本当に華やかだった頃は、こんな風だったんだ。
間もなく、暗い影を背負ったナイスミドルのマキシムに見いだされた「わたし」は、彼の新しい妻として、マキシムの城館のあるマンダレーに赴くのですが、ここの描写も素晴らしい! 広大な領地には、森も浜辺もアザレアの茂みもあり、絵のような佇まいを見せているのですが、こんなところへ来たら、誰もがとまどってしまうはず。まして、裕福な生まれでもなく、レディとしての教育も受けていない「わたし」に広い地所の管理と使用人の監督などできようはずがありません。 デュ・モーリアが凄いのは、こうした大旅館のおかみにもまさる責任を押しつけられた「わたし」のとまどいや世間ずれしていない様子を生き生きと描き出しているところ。
「レベッカ」は単に、よくできたミステリ小説というだけではなく、ヒロインのビルツゥイングスロマンにもなっているのでした。
マキシムの背負う影の原因は、前の妻レベッカの死因にあった――そこで衝撃の事実がわかり、さらにそれが二転三転し、エンディングへと続いて行く訳ですが、このあたりの筆致、デュ・モーリアは本当にお見事です。個人的には、アガサ・クリスティーなどよりずっと素晴らしい作品と思うのですが、わが国ではさほど読まれていないらしい。う~ん、もったいない!
それにしても、昔の英国貴族は、こんな贅沢で優雅な生活を送っていたのですね。「わたし」がマキシムと過ごすマンダレーのお屋敷に置かれた家具調度の素晴らしさは言うまでもなく、朝食やお茶に出されるパンやスコーン、ケーキ、紅茶までがこんなにたっぷりとあるなんて……この小説を読みながら、ミステリだと言うのに、美味しそうな料理を想像して、うっとりしてしまいました。
P.S ヒロインのわたしとマキシムは、マンダレーを失った後、どんな人生を送ることになるのか? 外国のホテルをさまようように流浪の人生を送るのか。暗雲を感じさせるラストが、心に残ります。