最近、人見絹枝に興味があります。
と言っても、今では知る人も少ないだろうなあ……。女子陸上黎明期の暁の星☆とでも言うべき存在で、日本最初の女子オリンピックメダリストであります。1907年生まれで、1931年に24歳の若さで世を去っている天才アスリートーーふと、どこかで見た写真で、「あ、この人いい顔してるなあ」と思ったのが、私が人見絹枝に興味を持ったきっかけでした。
1928年の第8回アムステルダムオリンピックで、「死の激走」と言われた800メートル走で銀メダルを取った写真が残ってますが、この感動的な場面も、もう百年近くも前のこと。人々の記憶からも、彼女のことはすっかりこぼれ落ちていると思っていたのですが、この間、NHKのEテレで「偉人の年収」というどストライクな番組があり、人見絹枝のことを取り上げていました。
こういう感じの人が「人見絹枝」に扮してました。この人、誰?
男性なんだろうけど、髪型とか横に留めたピンとか、人見絹枝をカリカチュアしてて、思わず、笑ってしまいました。白いブラウスに、エンジ色の胸元のリボン……百年前の日本女性の洋装というのは、こういう感じだったんでしょうね。
ちなみに、本物の人見絹枝は、こんなルックスの人。170センチの長身だったといいますから、150センチそこらが平均的身長だった1世紀前の日本女性の中では、目だっていたでしょう。そんな彼女が生まれたのは、岡山市福成の農村。家は農家でしたが、進歩的な考えを持つ両親の意向もあり、小学校を卒業した後、岡山県岡山女学校に通うことに。当時は、県下の才媛が集まる難関だったようです。
女学校時代は、テニスに熱中していたというのですが、足を踏み入れた陸上の世界でも、いきなり日本一、世界一の新記録を出すという天賦の才能を発揮しました。そんな彼女は、19歳の時、たった一人の日本人として、スゥエーデンのイェーテボリで行われた万国女子大会に出場しますが、そこでも最優秀選手に選ばれるなど、ヨーロッパの人々を驚かせました。
それにしても、この時代、たった一人で、ヨーロッパに乗り込んだ彼女。山口の下関から船で大陸へ渡り、シベリア鉄道でモスクワを経由して、スゥエーデンへ向かうのですが、その旅路は1か月という長さです。
これだけでも圧倒されてしまうのですが、当時の日本はナショナリズムの高揚が激しく、今のオリンピック選手など比べ物にならない、精神的重圧があったに違いありません。
実は、私が彼女に惹きつけられたのは大正モガの雰囲気が残る時代の面白さや、明治の女性の強さだけでなく、彼女の文章を読んだため。
実は、人見絹枝は、国語の成績が大変良く、文章を書くのが巧みでした。だから、陸上の練習をする傍ら、熱烈にスカウトされた大阪毎日新聞社で女性記者としても働いていたわけ。TVでは、絹枝の物まねをしてる人が、レトロモダンな部屋で、木の机に向かい、腕には黒いカバーを脚絆のようにつけてましたが、この時代は、本当に、こんな感じだったんだろうなあ……。
絹枝は、アムステルダムで金メダル候補だったにかかわらず、惨敗し、今まで一度も走ったことのない800メートルに出場して、雪辱を果たすしかなくなります。
残された日記には、彼女が重い心を抱きながら、レストランに入り、楽曲を演奏しているロマの人々に、サラサーテの「ツィゴイネルワイゼン」を演奏してくれ、と頼む場面が描かれています。しかし、その文章の鋭さや、ひしひしと胸に迫ってくるような心情描写。
思わず、これが書かれたのが、もう百年近くも前のことだということを忘れてしまいそうなほどに、絹枝の絶望や、力をふり絞る決意が迫真力を持って迫ってきます。
結局、何度もの渡欧の過労や激務のせいもあって、彼女は大阪大学病院で、乾落性肺炎のため、亡くなります。あまりにも短い人生や、その肩にのしかかった重圧を思うと、「すごいなあ」と思うと同時に、悲しさも感じてしまうのは、私だけでしょうか?
このマンガ版を買って読みましたが、面白かったです。