安土城(6)

2014年02月16日 | 滋賀百城

 




この著者である辻泰明が、「信長の死―。その前後を境
として、日本史は中世から
近世へと変わる。しかし、近
世という言い方は、実は日
本史にのみ特有の言い方なの
である。世界史では、中世
のあとは近代であって近世と
いう、中世と近代を合わせ
たような中途半端ともいえる
時代区分はない」と、いみじくも第5章で語ったように
「近代」とは西欧思想(史)上のみに存在する言葉であ
る。その意味するとことろの1つは、中東のイスラム圏
諸国の特徴とする「半国家」から宗教の分離「国民国家」
家」への移行であり、2つめの王権と民衆との抗争を経
た民主主義の成熟をさす。「もし、信長が生きていたら
という言い方は無意味であるとはいえ、しかし、信長な
らば、一気に日本を中世から近代へと変えていたのでは
ないか」との辻泰明の問いかけは、現代日本史の本質的
な問題を語っているのである。そのことを踏まえ「なぜ
安土だったのか」(第1章『幻の城』)に遡る。


信長の夢 「安土城」発掘

●なぜ安土だったのか

 かつて安土城が築かれていた安土山は、滋賀県安土町
にある。
 その標高は、およそ199メートル。琵琶湖の湖面か
らは、およそ110メートル。この安土山のいただきに
天主がそびえていた。
 『信長公記』には、その構造は地下1階地上6階の七
重のものであったと記されている。大きさは、南北およ
そ40メートル、東西およそ34メートル、高さはおよ
そ32メートル。湖の上から見れば、山の高さとあわせ
てその最上階は140メートル以上の高さに達すること
になる。安土城天主は、戦国時代の人びとにとっては、
まさしく雲を貫いて天に届くかのような驚異的な建造物
だったにちがいない。
 今、安土山のいただきに天主の面影はない。しかし、
山の稜線の一角からは安土の田園を見渡すことができる。
それは、のどかで静かな、平凡とさえいえる風景である。
 信長はなぜ、この地に城を築こうとしたのか。
 日本地図を広げてみると、その意図が明らかになる。
 安土は、それまでの本拠であった岐阜と、京の都との
中間にある。しかも、付近を中山道が通っており、交通
の要衝でもある。ここに拠点をかまえれば、東国にも西
国にもにらみがきく。なにより琵琶湖のほとりにあって、
水運が利用できることが大きい。舟を使えば、いざとい
う時、京に急行できるからである。
 永禄十二年(1569)、信長は、京都で三好一族が
攻勢を開始したという報をきいて駆けつけようとした。
しかし、岐阜から京への道程が長く、鎮圧に間に合わな
いという苦い経験をしている。この時は、明智光秀ら警
護の武土たちの奮戦によって事なきを得た。が、これ以
後、信長は岐阜ではなく、もっと京に近い場所に拠点を
かまえなければならないという決意を固めていたはずで
ある。


 京に近い場所で、まったく新しい拠点を築きたい。そ
ういう信長の願いにとって、安土は最適の場所だった。
安土の南側には、かつてこの地を支配していた六角氏が
観音寺城という城を築いていた。それは、上街道と呼ば
れた中山道の本道に隣接する山の上にあった。常識的に
考えれば、この六角氏の城を利用するか、あるいはその
遺構をもとに新しい城を築くほうが便利だと思われる。
 しかし、信長の発想はちがっていた。わざわざ、下街
道と呼ばれる中山道の脇道(迂回路)に隣接する安土山
に城を築いたのである。
 それは琵琶湖の水運に注目してのことだったにちがい
ない。信長は、本拠他の岐阜と京の往還には、もっぱら
琵琶湖の水運を利用していたと考えられるからである。
 下街道は琵琶湖の湖岸のすぐ近くを通っている。そし
て安土山は、湖の入り江に突きだす半島
の上にそびえている。琵琶湖を利用するならば、そこは
絶好の立地ということになる。
 安土山の近くには、常楽寺という港があった。『信長
公記』によれば、天正三年(1575)、つまり安土城
が築かれはじめる前の年までに、信長は何度もこの他に
立ち寄っている。
 とくに天正三年四月二十七日のくだりには、「坂本か
ら佐和山へ渡ろうとしたところ、嵐のため常楽寺から上
した」という内容が記されている。坂本は琵琶湖の南西
岸にあり、京都へ向かう時の船着場だった。一方、佐和
山はそれまで浅井氏が拠点としていた城だった。信長は
浅井氏をほろぼしたあと、この佐和山にあった城を琵琶
湖東部の拠点にしていたのである。しかし、坂本から佐
和山まで舟で渡るとなると、琵琶湖の南岸に沿って長い
距離を横断することになる。また、この天正三年四月二
十七日の記述にあるように、悪天候に見舞われることも
あっただろう。
 常楽寺は、そういう場合の臨時の避難港として使われ
ていたと思われる。常楽寺ならば、坂本と佐和山の中間
にあたるから、移動距離は半分である。しかも入り江の
奥にあるから、悪天候の被害も受けにくい。
 何度か常楽寺を利用するうちに、信長は湖上に突き出
すようにして立つ安土山に目をとめたのではないか。そ
して、いずれはあの場所に城を、という思いをいだいた
のではないか。そう考えられるのである。
 その、安土山に城を築きたいという思いを実行に移す
に際して、信長は実に用意周到な戦略をたてた。

                 -中略-

●光秀と秀吉

 それから遅れること2年。天正元年(1573)八月
には、今度は光秀のライバル、羽柴秀吉が信長から浅井
長政の旧領、近江の北三郡の支配をゆだねられた。その
後、秀吉は長浜に築城を開始する。光秀に遅れをとって
いた秀吉の挽回である。
 と、こういうふうに表面だけをなぞると、坂本城の建
設も長浜城の建設も、信長の家臣たちの中で最も有能な
二人であった光秀と秀吉の出世競争にしか見えない。
 しかし、ここであらためて地図を広げ、安土という地
点をポイントにして、それぞれの城の位置を見直してみ
ると、まったく別のことが見えてくる。 

 坂本は琵琶湖の南西岸にある。一方、長浜は琵琶湖の
東岸にある。
 では、安土はどこにあるか。両者のちょうど中間に位
置しているのである。言いかえれば、坂本と長浜は、南
西と北東から安土を守る位置にあるといえる。
 これはなにを物語るか。おそらく信長は、安土に自分
の本拠を築くに先だって、光秀と秀吉に両脇を固めさせ
ておく計画だったにちがいない。
 信長が中央に城を築く。そしてその両翼に、光秀と秀
吉という際立って有能な二人の武将を配置しておく。光
秀には、都と西方からの攻撃に対する押さえをまかせる。
一方、秀吉には北方と背後からの脅威に対する備えをさ
せる。
 そうやって、信長は防衛線を構築してから、安土に城
を築きはじめたのである。
 のちに触れるが、信長は盆の祭りの一夜に天主に灯を
ともし、その光の美しさを、武士、町人もろともに鑑賞
させるという一種のイベントを催す。戦国時代とはとう
てい思えない平和的な光景である。信長に、そういう演
出を可能ならしめたのも、万が一敵に攻められても、遠
く坂本と長浜の線で食いとめておけるという前提があっ
たからにちがいない。
 信長はさらに安土城築城開始後の天正六年にも、今度
は琵琶湖の西岸に城を築かせた。信長の甥、織田信澄の
居城、大溝城である。大満城は、ちょうど安土城の対岸
に位置する。信長は琵琶湖の四辺を城塞の群れで固めた
のである。
 信長の周到さは、しかし、それだけではなかった。坂
本城と長浜城には、石垣が築かれている。この二つの城
は、石垣という当時の先端技術の実験台でもあったのだ。
 今日の感覚では、城に石垣が用いられるのは当たり前
のように思える。しかし、戦国時代までの日本の城はほ
とんどが、山のT角に堀をうがち、土塁を盛り上げてつ
くられたものばかりだった。石を巧みに組み合わせて、
堅固で巨大な石垣をつくる技術が未成熟だったからであ
る。
 近江の国は、もともと石積みの技術の進んだ土地だっ
た。その土壌の上に立って、城を石で築くという新しい
技術の開発に、信長は取り組もうとした。その先駆けと
して、坂本城や長浜城に石垣を築かせたのである。
 そして、この二つの城でのノウハウの蓄積によって得
られた石垣構築の知識と技術を、信長は安土城に応用さ
せた。安土城は山全体を石で固めたといっても過言では
ないほどに、石垣を多用している。これほど石垣を本格
的に用いた例は、日本史上初めてといってもよいほどで
ある。その下敷きには、坂本城と長浜城での「実験」が
あったわけである。
 坂本城と長浜城の位置、そして石垣を見るだけで、安
土城がけっして思いつきでつくられた城ではないことが
よくわかる。
 思いつきどころではない。信長はこの城に、その思想
と才能のすべてを投入していたのである。
 安土城の姿がわかれば、信長の考えていたことがわか
る。そういうことがよくいわれる。
 安土城には、信長の夢、願い、野望、その他ありとあ
らゆる思いが込められている。後世のわれわれは、安土
城から信長の頭の中をかいま見ることができるのである。 

                 『第1章 幻の城』 PP. 30-37   

                    この項了