坂本城

2014年02月21日 | 滋賀百城

 

 

 

 足利義昭を奉じて京上洛を果たした織田俗長であった
が、反俗長勢力は近江を中心にして次第に大きなものに
なりつつあった。その先方は義弟の浅井長政の裏切りで
あった。元亀元年(1570)六月、信長は浅井・朝井
軍を姉川の合戦で迎え打ち勝利したが、反対勢力はその
後も抵抗を続けた。湖西と京を結ぶ新道を開きその守り
として築いた宇佐山城も攻められ、つわものの森三兄弟
の父森可成もここで戦死するくらいの壮絶な戦いであっ
た。この戦いで中心的役割を果たしていたのが比叡山延
暦寺である。俗長は比叡山に中立と開城を呼び掛け、従
わなければ全山焼き討ちすると呼びかけた。一旦は正親
町天皇の命により和睦したかに見えたが決裂。元亀二年
(1571)、信長は明智光秀を総大将として延暦寺攻
略を命じた。明智は門前町坂本を焼き払い、ここから比
叡山に逃げた者を追い打ちし焼き討ちした。焼き討ちは
凄惨を極め、堂宇はすべて焼き払われたと伝えられてい
る。ただし、近年の発掘調査では焼失した場所が記録ほ
ど発見されていない。

   坂本城跡コース

 戦後、信長は光秀の功を認め志賀郡五万石を与えた。
そして、新たに坂本城の築城を命じた。『兼見解記』に
よると、元亀三年(1572)十二月二十四日の項に「
城中の天主作事以下、悉く見られる也」とあり、天正十
年(1582)に小天守に於いて茶の湯が開かれている
ことからも、元亀段階で天主と小天守が建てられていた
ことがわかっている。最古級の天主であり、坂本城が城
郭史上重要な城郭であることがわかる。しかし、その姿
形は記録にはまったく残っていず復原は不可能である。
天正十年(1582)、光秀は主君信長を本能寺で討っ
た。その後、安土城に入城するが、甥の明智秀満に城を
託し山崎の合戦に向かう。六月十三日、山崎合戦で敗れ
た光秀が小栗栖の森で命を落とした事を知った秀満は、
安土城を後にし、十四日に坂本城に帰還。十五日、天主
に火を懸け自刃した。城はこの時に灰燈している。その
後、領地は丹羽長秀に与えられ、天正十一年(1583)
から再建が始まる。しかし、天正十四年(1586)の
大津城築城にあたり破却され移転されと伝えられている。
現在その跡地は、道路ができ湖岸整備や市街化による改
変が激しく、付近は坂本城址公園として石碑や石像が建
っているが、城は影も形もない。唯一、城跡を示すもの
としては、昭和四十五年に実施された本丸跡の発掘調査
と、湖底に残る石垣だけである。この石垣は、おそら
く本丸の外石垣と考えられるものであり、石垣の基底部
や胴水を見ることが出来る。夏の渇水時にしか見ること
が出来ない。

出典:

   

 

 

 

 

 

【エピソード】 

 
 

 

   

 

【脚注およびリンク】
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  1. 戦国人物伝 森可成
  2. 坂本城コース|戦国の舞台 近江を歩く、 滋賀県観
    光情報 
  3. 近江 坂本城、近江の城郭
  4. 連続講座「近江の城郭」第4回 元亀争乱を歩
    く~坂本・穴太
  5. 坂本城址公園、びわ湖大津観光協会
  6.  

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