高宮と宿場町 1

2015年07月14日 | デジタル高宮町史

高宮宿(たかみやしゅく、たかみやじゅく)は中山
道の64番目の宿場で、現在は滋賀県彦根市高宮町。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』
によれば、高宮宿の宿内家数は835軒、うち本陣
1軒、
脇本陣2軒、旅籠23軒で宿内人口は3,56
0人
であった。多賀大社への最寄りの宿場。多賀大
社の
一の鳥居が昔も今も高宮宿のランドマーク。特
産品
は麻織物で、高宮で生産された麻織物は高宮布
とし
て近江商人を介して日本各地に流通したほか、
彦根
藩から将軍家への献上品にもなっていた。



さて、『新高宮町史』を参考に、高宮の宿場の誕生
史の経緯を考察してみよう。

● 中山道と高宮宿の誕生

1.江戸幕府の街道整備、宿場の設置

大和時代から行政区画として確立されていた七道は
そこを通る街道を指すようになり、道路
機能をもつ
ようになるが、鎌倉・室町幕府をしても十分な整備
に至らなかった。

慶長5年(1600)関ケ原の合戦で勝利を収めた
徳川家康は、政策の第一の課題に道路整備をおく。

江戸を中心とする五街道が整備され、海道とか道中
とか呼ばれ、当初は各遠路の区間そのものも明確

はなかったものもあった。文化18年(1811)
にようやく『御触書(132)』によって次のよう
定められた。

・東海道
・日光街道
・奥州街道
・中山道
・甲州街道

街道の名称もそれまで「中仙道」「中仙道」の双方
が使用
されていたが、この御触書で「中仙道、山陰
道、山陽道いずれも『山』の文字『セン』と読み候
東山道は中筋の道にゆえ古来より中山道と申す事に
候云々」とあり、「中山道」の文字、呼称に統一さ
れた。

 五街道の出発地は全部「お江戸日本橋」で中山道
の全長は129里10町8間(約507・6キロメ
ートル)。中世までの東山道、木曽路を基本として
作られたが、現在の中山道とは必ずしも一致しない。

 家康が政策の第一に道路整備をおいたのは、天下
分け目の合戦で勝利したとはいえ、まだまだ豊臣一
族とこれに組する武将も少なくなかったので、常に
戦を念頭に置き、軍事目的の整備を行ったのであっ
た。

 合戦の翌年に東海道に宿駅を定め、伝馬制をしい
た。次いで翌慶長7年(1602)には中山道を調
査し、同じように伝馬制をしいた。道路整備には軍
学者であり土木工学の権威でもあった大久保長安を
奉行とし、当代一流の築城家を監督とした。工事の
請負は上木業者でもあり政商でもあった樽屋藤右衛
門、奈良屋市右衛門が請け負った、このことからも
徳川直轄の軍事目的の道路であったことがうかがわ
れる。

 道路幅は原則として五間(約9メートル)と定め
られた。当時の大型の通行物といえば馬と駕龍だっ
たから、これはかなり広い道幅であったといえよう。
この幅は江戸市中の主要道路が5間と定められてい
たことによるもので、二間(2・8メートル)より
狭い道は主要道路としては認められなかった。

 高宮宿では現在もそうであるようにこんなに広く
はなかった。文化元年(1804)の宿絵図には二
間一尺~四間二尺とあり、天保2年(1831)・
万延元年(1860)はいずれもニ問三尺~三間一
尺と記載されていて定められた追幅より狭い。慶長
7年に宿場と定められた時の追帽がどれほどであっ

たかはわからないが、恐らくぎりぎりの道路を造っ
たのではなかろうか。当時から高宮には多数の人が
生活し、家々が軒を連ねていた証しでもある。
 

 

並木

道路整備の{環として街道には松(または杉)並木
を造成した。この植樹工事は慶長9年(1804)
から足掛け九年もかかったといわれている。もちろ
ん東海道にも造られたし、一里塚も造
られたので大
変な出費であったに違いない。「武江年表」の説明
によると「夏は木陰に休ませて冬は木立に
風を避け
させる」と言ういたって平和的な説明がなされてい
るが、本来車事目的で整備された道路である
ことを
考えると、別の目的も合わせ持っていたと考えるの
が自然だとと考えられる。

一里塚

並木とともに一里塚も設置された。旅をする人に距
離を
知らせるためのものであった。それまで「一里
」という距
離そのものがまちまちであったので、こ
れを「一里三六
丁」と定めて、これを基準に一里塚
を造っていった。道路
の両側に土を高さ十尺(約8
メートル) 一辺五間という
大きな土塁のようなも
のを造り、その
平らな部分に木を植えた。東海道では
榎を、中山道では松または榎を植えた。木が植えられた
平坦な部分では休憩もできただろう。街道を行き来
する
大が多くなり、一々一里塚を目印にする必要も
なくなり宿場も整備されてくると当初の目的とは違

ったものになった。参勤交代の制度が作られてから
は、こうした街道の整備は、そこを通る諸大名に幕
府の
権勢を誇示するシンボルとなった。

https://www.shigabunka.net/archives/190

 こうして時代とともに一里塚の意識は薄れていっ
た。その結果、一里塚は手入れされないまま天明か
ら寛政時代(1780)に
かけて原型を留めること
ころは少なくなった。滋賀県では守山市今宿に唯一
残っていて、榎が植えられている。滋賀県の指定文
化財でもある。
 
高宮宿の近くでは、『中山道分間延絵図』(文化4年1
907)で見るとで見ると、南は安田橋を少し法士に入っ
たあたり、北は原町の村中にそれぞれ一里塚が描かれ
ている。

  法士一里塚跡

宿場

大宝律令で定められた駅は、鎌倉時代に入ると整備

は進められたが、平安時代の街道とは違う性格をも
つようになった。平安時代の京都の公家の支配によ
る中央集権のためのものではなく、武士の社会、幕
府のための道路としていわば車事目的の整備がなさ
れていった。

 
平安時代までは専ら「駅(うまや)」と呼ばれて
いたが、鎌倉時代になると「宿」と「駅」とが併用
されて「宿駅」と呼ばれることが多かった。江戸時
代になると単に「宿」あるいは「宿場」と呼ばれる
ようになり勘定奉行へ後、道路奉行の直轄となり維
管理されるようになった。
   
 中山道には67の宿場が作られ、各宿では一定の
人足、
馬を準備させ、通信、流通の拠点として公用・
私用を問わず継ハの業務を行わせることとなった。 

                この項つづく 


【エピソード】

 

 

榎 

エノキ(榎、Celtis sinensis)は、エノキ属の落葉
高木。雌雄同株で、高さは20メートル以上、幹の
直径は1メートル以上になる。枝が多く、枝ぶりは
曲がりくねっている。根元で数本に別れていること
もある。樹皮は灰黒褐色。
葉は互生し、長さ4~9
センチメールの卵形または長楕円形で、先は尾状に
のびる。葉の質は厚く、縁は鋸歯状だが、先端まで
葉脈が発達しておらず、丸みを帯びている。
 

花には雄花と雌花がある。葉と同時期(4月頃)に
、葉の根元に小さな花を咲かせる。花の後ろに、直
径5~6ミリの球形の果実をつける。熟すと橙褐色
になり、食べられる。味は甘いという。
 

 

一里塚にどのような木を植えたらよいかと、家康に家臣
がたずねると、「エエ木を植えよ」と答えたところ、件の家
臣が榎と聞き違え専用の植木に決まったという言い伝え
がある。

【脚注及びリンク】
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  1. 宿駅散策 近江中山道中絵巻:高宮宿 
  2. 中山道 高宮宿 彦根観光協会
  3. 中山道 高宮宿場町|彦根市
  4. 中山道 道中記 第64宿 高宮宿
  5. 中山道 高宮宿/高宮宿から愛知川宿
  6. 滋賀県彦根市 高宮宿 Japn Geographic
  7. 彦根市西葛町籠町~高宮宿-街道のんびり旅
  8. 高宮町~鳥居本宿-ひとり歩み-ひとり歩きの
    中山道 2004.4.9
  9. 彦根文化遺産 中山道と宿場町 高宮宿高宮ま
    つり・高宮布
  10. 日本写真紀行 鳥居本宿~64高宮宿
  11. 中山道高宮宿 馬場憲山宿
  12. 高宮宿 栗東歴史民族博物館民芸員の会のブロ
  13. 新高宮町史 自費出版デジタル

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