安土城(6)

2014年02月16日 | 滋賀百城

 




この著者である辻泰明が、「信長の死―。その前後を境
として、日本史は中世から
近世へと変わる。しかし、近
世という言い方は、実は日
本史にのみ特有の言い方なの
である。世界史では、中世
のあとは近代であって近世と
いう、中世と近代を合わせ
たような中途半端ともいえる
時代区分はない」と、いみじくも第5章で語ったように
「近代」とは西欧思想(史)上のみに存在する言葉であ
る。その意味するとことろの1つは、中東のイスラム圏
諸国の特徴とする「半国家」から宗教の分離「国民国家」
家」への移行であり、2つめの王権と民衆との抗争を経
た民主主義の成熟をさす。「もし、信長が生きていたら
という言い方は無意味であるとはいえ、しかし、信長な
らば、一気に日本を中世から近代へと変えていたのでは
ないか」との辻泰明の問いかけは、現代日本史の本質的
な問題を語っているのである。そのことを踏まえ「なぜ
安土だったのか」(第1章『幻の城』)に遡る。


信長の夢 「安土城」発掘

●なぜ安土だったのか

 かつて安土城が築かれていた安土山は、滋賀県安土町
にある。
 その標高は、およそ199メートル。琵琶湖の湖面か
らは、およそ110メートル。この安土山のいただきに
天主がそびえていた。
 『信長公記』には、その構造は地下1階地上6階の七
重のものであったと記されている。大きさは、南北およ
そ40メートル、東西およそ34メートル、高さはおよ
そ32メートル。湖の上から見れば、山の高さとあわせ
てその最上階は140メートル以上の高さに達すること
になる。安土城天主は、戦国時代の人びとにとっては、
まさしく雲を貫いて天に届くかのような驚異的な建造物
だったにちがいない。
 今、安土山のいただきに天主の面影はない。しかし、
山の稜線の一角からは安土の田園を見渡すことができる。
それは、のどかで静かな、平凡とさえいえる風景である。
 信長はなぜ、この地に城を築こうとしたのか。
 日本地図を広げてみると、その意図が明らかになる。
 安土は、それまでの本拠であった岐阜と、京の都との
中間にある。しかも、付近を中山道が通っており、交通
の要衝でもある。ここに拠点をかまえれば、東国にも西
国にもにらみがきく。なにより琵琶湖のほとりにあって、
水運が利用できることが大きい。舟を使えば、いざとい
う時、京に急行できるからである。
 永禄十二年(1569)、信長は、京都で三好一族が
攻勢を開始したという報をきいて駆けつけようとした。
しかし、岐阜から京への道程が長く、鎮圧に間に合わな
いという苦い経験をしている。この時は、明智光秀ら警
護の武土たちの奮戦によって事なきを得た。が、これ以
後、信長は岐阜ではなく、もっと京に近い場所に拠点を
かまえなければならないという決意を固めていたはずで
ある。


 京に近い場所で、まったく新しい拠点を築きたい。そ
ういう信長の願いにとって、安土は最適の場所だった。
安土の南側には、かつてこの地を支配していた六角氏が
観音寺城という城を築いていた。それは、上街道と呼ば
れた中山道の本道に隣接する山の上にあった。常識的に
考えれば、この六角氏の城を利用するか、あるいはその
遺構をもとに新しい城を築くほうが便利だと思われる。
 しかし、信長の発想はちがっていた。わざわざ、下街
道と呼ばれる中山道の脇道(迂回路)に隣接する安土山
に城を築いたのである。
 それは琵琶湖の水運に注目してのことだったにちがい
ない。信長は、本拠他の岐阜と京の往還には、もっぱら
琵琶湖の水運を利用していたと考えられるからである。
 下街道は琵琶湖の湖岸のすぐ近くを通っている。そし
て安土山は、湖の入り江に突きだす半島
の上にそびえている。琵琶湖を利用するならば、そこは
絶好の立地ということになる。
 安土山の近くには、常楽寺という港があった。『信長
公記』によれば、天正三年(1575)、つまり安土城
が築かれはじめる前の年までに、信長は何度もこの他に
立ち寄っている。
 とくに天正三年四月二十七日のくだりには、「坂本か
ら佐和山へ渡ろうとしたところ、嵐のため常楽寺から上
した」という内容が記されている。坂本は琵琶湖の南西
岸にあり、京都へ向かう時の船着場だった。一方、佐和
山はそれまで浅井氏が拠点としていた城だった。信長は
浅井氏をほろぼしたあと、この佐和山にあった城を琵琶
湖東部の拠点にしていたのである。しかし、坂本から佐
和山まで舟で渡るとなると、琵琶湖の南岸に沿って長い
距離を横断することになる。また、この天正三年四月二
十七日の記述にあるように、悪天候に見舞われることも
あっただろう。
 常楽寺は、そういう場合の臨時の避難港として使われ
ていたと思われる。常楽寺ならば、坂本と佐和山の中間
にあたるから、移動距離は半分である。しかも入り江の
奥にあるから、悪天候の被害も受けにくい。
 何度か常楽寺を利用するうちに、信長は湖上に突き出
すようにして立つ安土山に目をとめたのではないか。そ
して、いずれはあの場所に城を、という思いをいだいた
のではないか。そう考えられるのである。
 その、安土山に城を築きたいという思いを実行に移す
に際して、信長は実に用意周到な戦略をたてた。

                 -中略-

●光秀と秀吉

 それから遅れること2年。天正元年(1573)八月
には、今度は光秀のライバル、羽柴秀吉が信長から浅井
長政の旧領、近江の北三郡の支配をゆだねられた。その
後、秀吉は長浜に築城を開始する。光秀に遅れをとって
いた秀吉の挽回である。
 と、こういうふうに表面だけをなぞると、坂本城の建
設も長浜城の建設も、信長の家臣たちの中で最も有能な
二人であった光秀と秀吉の出世競争にしか見えない。
 しかし、ここであらためて地図を広げ、安土という地
点をポイントにして、それぞれの城の位置を見直してみ
ると、まったく別のことが見えてくる。 

 坂本は琵琶湖の南西岸にある。一方、長浜は琵琶湖の
東岸にある。
 では、安土はどこにあるか。両者のちょうど中間に位
置しているのである。言いかえれば、坂本と長浜は、南
西と北東から安土を守る位置にあるといえる。
 これはなにを物語るか。おそらく信長は、安土に自分
の本拠を築くに先だって、光秀と秀吉に両脇を固めさせ
ておく計画だったにちがいない。
 信長が中央に城を築く。そしてその両翼に、光秀と秀
吉という際立って有能な二人の武将を配置しておく。光
秀には、都と西方からの攻撃に対する押さえをまかせる。
一方、秀吉には北方と背後からの脅威に対する備えをさ
せる。
 そうやって、信長は防衛線を構築してから、安土に城
を築きはじめたのである。
 のちに触れるが、信長は盆の祭りの一夜に天主に灯を
ともし、その光の美しさを、武士、町人もろともに鑑賞
させるという一種のイベントを催す。戦国時代とはとう
てい思えない平和的な光景である。信長に、そういう演
出を可能ならしめたのも、万が一敵に攻められても、遠
く坂本と長浜の線で食いとめておけるという前提があっ
たからにちがいない。
 信長はさらに安土城築城開始後の天正六年にも、今度
は琵琶湖の西岸に城を築かせた。信長の甥、織田信澄の
居城、大溝城である。大満城は、ちょうど安土城の対岸
に位置する。信長は琵琶湖の四辺を城塞の群れで固めた
のである。
 信長の周到さは、しかし、それだけではなかった。坂
本城と長浜城には、石垣が築かれている。この二つの城
は、石垣という当時の先端技術の実験台でもあったのだ。
 今日の感覚では、城に石垣が用いられるのは当たり前
のように思える。しかし、戦国時代までの日本の城はほ
とんどが、山のT角に堀をうがち、土塁を盛り上げてつ
くられたものばかりだった。石を巧みに組み合わせて、
堅固で巨大な石垣をつくる技術が未成熟だったからであ
る。
 近江の国は、もともと石積みの技術の進んだ土地だっ
た。その土壌の上に立って、城を石で築くという新しい
技術の開発に、信長は取り組もうとした。その先駆けと
して、坂本城や長浜城に石垣を築かせたのである。
 そして、この二つの城でのノウハウの蓄積によって得
られた石垣構築の知識と技術を、信長は安土城に応用さ
せた。安土城は山全体を石で固めたといっても過言では
ないほどに、石垣を多用している。これほど石垣を本格
的に用いた例は、日本史上初めてといってもよいほどで
ある。その下敷きには、坂本城と長浜城での「実験」が
あったわけである。
 坂本城と長浜城の位置、そして石垣を見るだけで、安
土城がけっして思いつきでつくられた城ではないことが
よくわかる。
 思いつきどころではない。信長はこの城に、その思想
と才能のすべてを投入していたのである。
 安土城の姿がわかれば、信長の考えていたことがわか
る。そういうことがよくいわれる。
 安土城には、信長の夢、願い、野望、その他ありとあ
らゆる思いが込められている。後世のわれわれは、安土
城から信長の頭の中をかいま見ることができるのである。 

                 『第1章 幻の城』 PP. 30-37   

                    この項了 

 

  

 


安土城(5)

2014年02月14日 | 滋賀百城

 

 

 


信長の夢 「安土城」発掘

●失われた近代

 安土城を見ると、信長がいかに先駆的であったか、そ
してあとを継いだ者たちがいかに、その
発想を真似よう
としたかが如実に浮かびあがってくる。

 秀吉は大坂城を築き、天皇に遷都をうながした。それ
が叶わないと知るや、楽楽第を築いて、
そこへの行幸を
願うことで妥協した。秀吉は本来は、信長を真似て、大
坂城に天皇の御所を築くつもりだったかもしれない。し
かし、遷都が実現しなかった上は、その構想をあきらめ、
御所を大々的に修理した。

 新しくそこに築かれた清涼殿は、信長が安土城に築い
た本丸御殿と東西を逆にした瓜二つの建物だった。くり
かえしになるが、時系列からいえば、信長が御所の建物
に似せてつくったのではなく、秀吉が信長の建物を真似
て(天正の)清涼殿をつくったのである。徳川幕府もま
た、その前例を踏襲し、慶長の清涼殿をつくった。

 秀吉も家康も信長と同様に、宗教を膝下に置こうとし
た。家康は、信長が「安土宗論」をおこなったのと同様
に宗論をおこない、宗教勢力を牽制した。また、家康は
儒教を国是とし、統治の基本理念とした。

 秀吉は大坂城に、安土城のものよりも高い天守を築い
た。そして、いっそう豪華に黄金で装飾した。しかし、
そこに納められたのはもっぱら金銀財宝で、信長がもっ
ていた深い思想性は受け継がれることはなかった。また、
秀吉は天守という高層建築の中に実際に住むこともなか
った。家康も江戸城に、大坂城のものよりもさらに高い
天守を築いたが、秀吉と同様、信長の思想性は継承しな
かった。秀吉と家康の両者が競ったのは、ただ前者より
高い建物を建てるという外形の威容のみだったように思
われる。

 安土城で天主と呼ばれた建築物は、のちの城ではその
実質的な機能を失い、城の飾り、象徴、いざという場合
の避難所へと成り代わっていく。中世の山城は、もとも
と軍事施設であり、臨時の避難所であるという性格が強
く、常時、住む場所ではなかった。信長はその城を日常
住む住居に変え、儀式や祭典をおこなう場所と定め、政
治施設としての役割ももたせた。のちの城は、たしかに
政治施設としての側面は継承したが、こと天主(天守)
に関してのみは中世へと逆戻りしてしまったかの感があ
る。

 光秀も含めて旧時代の秩序を是とする者に、信長が理
解できなかったのはいうまでもないが、新しい時代の覇
者であろうとする秀吉にも家康にも、信長の考えている
ことの深奥までは理解できなかったのかもしれない。
 信長がなしとげたのは、「下剋上」の完成であったと
いわれる。それは、中下級の武士団が古い権力を打ち倒
し、日本をまったく新しい国に変えようとした動きでも
あった。信長はその最先端を突っ走っていた。そして、
その動きの速さについていける者はいなかった。
 毛利氏の外交憎、安国寺恵瓊が信長を評して、そのう
ち「高ころびにあをのけにころ」ぶだろうと予言したの
は有名な話である。その千百は、家臣光秀の裏切りとい
う形で現実化した。

 信長の無残な最期を見た秀吉と家康は、その踏鉄は家
臣たちへの恐怖政治にあるとみた。そして、それぞれ独
自のやり方で人心収攬に励み、天下をとった。が、しか
し、二人が天下をとる過程で、あるいは変革の進度が鈍
り、あるいは変革の内実が変化することはなかっただろ
うか。
 信長の死-。その前後を境として、日本史は中世から
近世へと変わる。しかし、近世という言い方は、実は日
本史にのみ特有の言い方なのである。世界史では、中世
のあとは近代であって近世という、中世と近代を合わせ
たような中途半端ともいえる時代区分はない。
 もし、信長が生きていたらという言い方は無意味であ
るとはいえ、しかし、信長ならば、一気
に日本を中世か
ら近代へと変えていたのではないか。安土城に横溢する
信長の独創性は、そういう想像の禁を侵させる魅力をも
っている。
 安土城の姿を探ることは、失われた日本の近代を探し
だす作業にもつながるはずである。




●信長の夢

 安土城の発掘調査は、城の常識のみならず、信長に対
するこれまでの認識、ひいては日本史の解釈までをもく
つがえす可能性をもつ重要な事業だった。
 今後、発掘調査の結果の分析がさらに造めば、また新
たな解釈が現れることは充分ありうる。
 平成十二年度には、天主台の発掘にさきだって、本丸
取付合と呼ばれる城郭中枢部の北側と、三の丸の発掘調
査もおこなわれた。こののち、本丸取付合の役割、天主
とその他の建物を結ぶ廊下の位置と方向、天主を支える
構造の詳細などがさらに明らかになるはずである。
 あるいは、ある日突然、信長が描かせた屏風が発見さ
れることがあるかもしれない。その時、そこに記された
天主の形がどのようなものであるか。それによって『天
守指図』の価値をはじめ、安土城をめぐるいくつかの疑
問は解消されることになる。
 発掘調査が一段落した安土山は今ふたたび、この地に
城が築かれる前と同じく、静けさが漂う場所になってい
る。

 もう一度、本丸跡から天主のあたりを訪ねてみた。
 信長が生きてこの世にあり、安土城の天主が蒼寫をつ
いてそびえ立っていたころ、この本丸
から天主へと渡る
道には、青い輝きを放つ越前産の笏谷石が敷きつめられ
ていたという。
 快速船で都から戻ったばかりの信長がビロードの南蛮
マントをひるがえして、緑青色の石畳の上を行く。
 そんな幻影が、ふと目の前をよぎって、すぐに消えた。
 安土城の焼失から、四百年あまりの時が流れた。
 信長がこの城に託したさまざまな夢は、今なお安土山
のいただきに眠りつづけている。

       『第5章 信長の夢』 PP. 232-236     

                  この項つづく

 

【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .02.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会
  6. 『安土城趾』滋賀県史蹟名勝天然記念物調査報告
    第十一冊、1942
  7. 『安土城天主復原考』土屋純一、「名古屋高等
    工業専門学校創立二十五周年記念論文集」1930
  8. 『安土山屏風に就いて』廣田青陵、「仏教美術」
    1931
  9. 『安土城天守復原についての諸問題』城戸久「
    建築学会研究報告」1930
  10. 『安土宗論の史的意義』中尾、「日本歴史」112
    号、1957
  11. 『日本佛散史 第七巻 近世篇之一』辻善之助、
    岩波書店、1960
  12. 『安土城天守の推定復元模型』桜井成広、「城
    郭」1962/1963
  13. 『明智軍記にみる織田信長と安土城』小和田哲
    男、「城郭」1963
  14. 『安土城と城下町』小和田哲男、「城郭」1963
  15. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書Ⅱ 
    大手道・伝羽柴秀吉邸跡』滋賀県教育委員会、1995
  16. 『信長の宗教政策』奥野高広、「日本歴史」1966
  17. 『イエズス会土日本通信 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1968
  18. 『信長公記』奥野高広・岩沢悳彦校注、角川文庫、
    1969
  19. 『イエズス会日本年報 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1969
  20. 『シンポジウム日本歴史10 織豊政権論』脇田
    修ほか、学生社、1972
  21. 『京都御所と仙洞御所』藤岡通夫編、至文堂、1974
  22. 『織豊政権』藤木久志・北島万次編「論集日本歴
    史6」、有精堂、1974
  23. 『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄、岩波書店、
    1975
  24. 『京都御所』藤岡通夫、中央公論美術出版、1975
  25. 『安土城の研究(上)(下)』内藤昌、「国華」
    987/988号、1976
  26. 『安土城天主の復原とその史料について(上)(下)
    』言上茂隆、「国華」988/999号、1977
  27. 『キリシタン宗門と吉田神道の接点-安土城出土
    の瓦について-『天道』という語をめぐって』小
    山直子、「キリシタン研究」1980
  28. 『織田政権の研究』藤木久志編、吉川弘文館、1985
  29. 『織田政権の権力構造』三鬼清一郎、吉川弘文館、
    1985
  30. 『織田信長』脇田修、中公新書、1987
  31. 『増訂 織田信長文書の研究』奥野高広、吉川弘
    文館、1988
  32. 『城と城下町』藤岡通夫、中央公論美術出版、1988
  33. 『天下一統』朝尾直弘、「大系日本の歴史8」小
    学館、1988
  34. 『織田信長と安土城』秋田裕毅、創元社、1990
  35. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告1 伝羽柴秀吉
    邸跡』滋賀県教育委員会、1991
  36. 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』松田毅
    一監訳、同朋舎、1992『特別史跡安土城跡発掘調
    査報告2 大手道および伝羽柴秀吉邸跡・伝前田
    利家邸跡・伝徳川家康邸跡』滋
    賀県教育委員会、1992
  37. 『信長と天皇』今谷明、講談社現代新書、1992
  38. 『安土城障壁画復元展』日本経済新聞社、1993
  39. 『平安京と水辺の都市、そして安土』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす6」1993
  40. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告3 大手道およ
    び伝前田利家邸跡』滋賀県教育委員会、1993
  41. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告4 大手道およ
    び伝武井夕庵邸跡・伝織田信恵邸跡』滋賀県教育
    委員会、
  42. 『復元 安土城』内藤昌、講談社、1994
  43. 『将軍権力の創出』朝尾直弘、岩波書店、1994
  44. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書I 
    大手道・伝羽柴秀吉邸櫓門跡』滋賀県教育委員会、
    1994
  45. 『安土城』「歴史群像・名城シリーズ3」学習研
    究社、1994
  46. その系譜と織豊政権における築城政策の一端』木
    戸雅寿、「織豊城郭」創刊号、織豊期城郭研究会、
    1994
  47. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告5 大手門推定
    地及び周辺地の調査』滋賀県教育委員会、1995
  48. 『織豊期城郭にみられる桐紋瓦・菊紋瓦』木戸雅
    寿、「織豊城郭」第2号、織豊期城郭研究会、1995
  49. 『安土城の中の「天下」襖絵を読む』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす16」1995
  50. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書Ⅲ 
    大手道・伝羽柴秀吉邸跡』滋賀県教育委員会、1996
  51. 『近世石垣事情 考古学的石垣研究をめざして』
    木戸雅寿、「織豊城郭」第3号、織豊期城郭研究会、
    1996
  52. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告6 旧徳見寺境
    内地及び周辺地の調査』滋賀県教育委員会、1996
  53. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書Ⅳ 
    大手道』滋賀県教育委員会、
  54. 1997『平成9年度特別史跡安土城跡発掘調査現地説
    明会 搦手道を歩く』滋賀県教育委員会・滋賀県安
    土城郭調
    査研究所、1997
  55. 『天下布武への道 信長の城と戦略』成美堂出版、1997
  56. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告7 百々橋口道周
    辺・主部南面の調査』滋賀県教育委員会、1997
  57. 『安土城の惣構えの概念について1・2』木戸雅寿、
    研究紀要」第5/6号、滋賀県安土城郭調査研究所、
  58. 『安土城の天主台と本丸をめぐって』木戸雅寿、
    「織豊城郭」第5号、織豊期城郭研究会、1998
  59. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告8 搦手道上半部・
    主郭東面の調査』滋賀県教育委員会、1998
  60. 『安土城信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所、
    読売新聞社連載、1998~
  61. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書V 
    大手道・伝羽柴秀吉邸跡』滋賀県教育委員会、1998
  62. 『平成10年度特別史跡安土城跡 発掘調査現地説明
    会資料』滋賀県教育委員会・滋賀県安土城郭調査研
    究所、1998
  63. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告9 主部北面・
    搦手道の調査』滋賀県教育委員会、1999
  64. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書Ⅵ 大
    手道・七曲り郭』滋賀県教育委員会、1999
  65. 『平成十一年度特別史跡安土城跡 発掘調査現地説
    明会資料』滋賀県教育委員会・滋賀県安土城郭調査
    研究所、1999
  66. 『特別史跡安土城跡発掘調査10周年成果展 安土城・
    1999』滋賀県立安土城考古博物館、滋賀県安土城
    郭調査研究所、1999
  67. 『平成十一年度特別史跡安土城跡発掘調査 本丸跡
    で発見された建物跡について』滋賀県安土城郭調査
    研究所、1999
  68. 『特別史跡安土城跡環境整備事業概要報告書Ⅶ 大
    手道・伝徳川家康邸跡』滋賀県教育委員会、2000
  69. 『安土城が語る信長の世界』木戸雅寿、「駿府城
    をめぐる考古学」静岡考古学会、1999
  70. 『天下統一と城』国立歴史民俗博物館、読売新聞
    社、2000
  71. 『よみがえる安土城』木戸雅寿、「天下統一と城」
    展図録、国立歴史民俗博物館、2000
  72. 『平成12年度特別史跡安土城跡 発掘調査現地説明
    会資料』滋賀県教育委員会・滋賀県安土城郭調査研
    究所、2000
  73. 『完訳 フロイス 日本史1、2、3』松田毅一・
    川崎桃太訳、中公文庫、2000
  74. 『信長権力と朝廷』立花京子、岩田書院、2000
  75. 『塔 形・意味・技術』朝日百科、日本の国宝別冊
    「国宝と歴史の旅8」朝日新聞社、2000
  76. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告10 主部西面・搦
    手道湖辺鄙の調査』滋賀県教育委員会、2000
  77. 『特別史跡安土城跡発掘調査報告11] 主部中心
    部本丸の調査』滋賀県教育委員会、2001
  78. 『平成12年度特別史跡安土城跡調査・整備事業の成
    果につ
    いて』滋賀県安土城郭調査研究所、2001
  79. 『戦国大名と天皇』今谷明、講談社学術文庫、2001
  80. 『仏を超えた信長-安土城見寺本堂の復元-』、
    鳥取環境大学紀要、No.8 PP.31-51 2010.06

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安土城(4)

2014年02月13日 | 滋賀百城

 

 




信長の夢 「安土城」発掘

●安土城炎上

天正十年(1582)五月四日-。天皇の使いが安土城を訪
れた。信長を、太政大臣か関白
か征夷大将軍か、そのい
ずれかに任命したいという意向を伝えにきたのである。
しかし、信長は
この意向に対し返答をすることなく、使
いを帰してしまう。

 徳見寺で信長の誕生日を祝う祭りが催されたのは、フ
ロイスの『日本史』によれば、その一週
間後のことであ
る。

 そして、その祭りの日の十九日後。
 天正十年六月二日未明-。
 わずかな護衛とともに京都本能寺にいた信長を、明智
光秀率いる軍勢が襲った。

 「是非に及ばず」との一言を残して信長は自害。その
夢と野望は、炎の中でついえ去った。

 安土城を設計施工した大工の棟梁、岡部又右衛門以言
とその子、以俊も本能寺に同宿していた。

  そして、共に討ち死にする。設計施工担当者がこの世
から消えたことで、安土城の独創的な空間
構成を可能に
した技術のノウハウを正確に知る者はいなくなってしま
った。

 あとには、主を失った、その作品としての居城のみが
残った。

 そして、十日あまり後。
 天正十年六月半ば-。
 安土城中枢部に火の手があがった。天主は燃え落ち、
本丸御殿は灰塵に帰した。
 城はなぜ燃えたのか。
 さまざまな説が取り沙汰されてきた。
 城下町からあがった火の手が天主や本丸に飛び火して
類焼したのだという説もあった。しかし、その説は、城
下町と天主の中間に位置する見寺、あるいは、「秀吉」
邸に火がおよんだ形跡がないことから否定された。
 では、何者かが火を放ったのか。
 信長の息子信雄のしわざであるという説もある。また、
光秀の一派のしわざであるという説もある。犯人は何者
とも断定できず、その詳細はいまだ謎のままである。
 しかし、誰が火を放ってもおかしくない状況はあった。
 安土城天主は、六月十四日より前の段階で、すでに一
度、火が放たれようとしていたからである。
 本能寺の変を安土で伝え間いた時の人びとの反応を、
太田牛一はこう記している。

 六月三日未刻、のかせられ候へと申され候。御上蕩衆
仰せられ様、とても安土打捨てのかせ
られ候間、御天主にこれある金銀・大刀・刀を取り、火
を懸け、罷退き候へと仰せられ候

    (奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)

城に残っていた信長の夫人や側室たちは、安土を捨てて
立ちのくからには、天主にある金銀・大刀・刀を持ち出
し、それから火をかけて立ち去るようにと命じたという
のである。城を捨てて落ち延びる際には、敵に利用され
るのを防ぐために破壊して去るのが戦国時代の常であっ
た。
「御上蕩衆」も、その常識にしたがって、あえていえば
武家の女性として精一杯の思慮をもって、
放火を命じたのであろう。

 安土城は、当時の人びとの理解を超えていた。
 それが文化的な価値があるものだということは、放火
を命じた夫人たちにはもちろん、多くの人びとの想念の
中になかった。
 この時は、留守を預かっていた近江の武将、蒲生賢秀
の諌言によって、安土城は一度は焼失を免れた。
 しかし、その後、安土城は明智光秀に占領され、財宝
は持ち出された。すでに宝物のなくなった城は、前にも
まして無価値となった。そう人びとは思ったにちがいな
い。
 城は戦争の道具という戦国時代の通念の前では、主を
失った城で、価値があるのはそこに納められた金銀財宝
や武器だけである。それがないとなれば、あとは要塞と
しての利用価値しかない。
とすれば、放置しておいて敵方に利用されてはならぬ。
当時の人びとは、そう思ったのではないだろうか。
 火をつけたのが何者であろうと、その戦国時代の常識
にしたがって、炎を点じたのであろう。建築物としての
城そのものに価値があるとは、誰も理解していなかった
のにちがいない。
 かくして、日本美術史上、画期的な価値をもつ狩野永
徳の障壁画は幻のものとなり、信長の理念の象徴は、こ
の世から消えた。
 安土城は信長がいなくては存続できないものだった。
 それは、まさに信長の思想を具体化し、信長の精神と
同質化した石造りの化身だった。
 そして、この城の滅却とともに、日本の歴史はなにも
のかを失った。

●人工都市の幻影

 信長の横死が伝えられたあとの安土からは、まるで砂
浜から波が引いていくかのように、人影が消えていった。
その様子が『信長公記』には、次のように記されている。

身の介錯に取紛れ、泣き悲しむ者もなし。日比の蓄へ、
重宝の道具にも相構はず、家々を打捨て、妻子ばかりを
引列れく、美濃・尾張の人々は本国を心ざし、思ひくに
のかれたり。
   
     (奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)

 みんな自分の身の振り方をどうするかに取り紛れて、
信長の死を悲しむ者もいなかった。ふだんからの蓄えや
高価な家財道具にも構わず、家屋敷を捨て、妻子だけ連
れて、美濃・尾張の人た
ちは自分の本国へ逃げていったというのである。
 安土城は近江の国に建設された城郭であるが、その城
内、そして城下町には、信長のもともと
の領国である尾張や美濃から移住してきた人びとが多か
ったことを物語っている。
 かつて信長の存命中に、安土の城下町にある武家屋敷
から火事が出たことがある。その原因を探るうちに、信
長は家臣たちが本国・尾張に妻子を残してきていること
を知った。そこで尾張にあった家臣たちの屋敷を焼き払
い、その妻子たちが安土に引っ越してこざるをえないよ
うにした。そうまでして、信長は安土に人びとを住まわ
せなければならなかったのである。

 安土という都市は、なかば強引に信長の意志でつくら
れた人工の都市であったことがわかる。
 安土の町には、真にそこに根ざした者は少なかった。
ここが自分の上地という意識はまだ薄く、商人は信長の
優遇策にひかれて、武士は信長の命令によって集まって
いただけだった。要である信長がいなくなれば、その紐
帯はほどけるしかなく、みんな「本国」へ逃げ帰ってし
まったのである。
 のちの大坂や江戸のように、たとえ戦禍や災害に見舞
われても、ふたたび人びとがそこに戻ってきて、復興を
めざす。そういう都市住民が生まれてくるには、少なく
ともあと数十年の時を必要としていた。やがて琵琶湖の
ほとり近江ハ幡に、豊臣秀吉の甥、秀次が城下町を築い
た。そして、安土の町に移転の命令を出した。以後、安
土は昔日の面影を急速に失っていく。
 信長がめざした日本の首都としての安土という都市が
完成するには、時間がなさすぎた。信長の考えを人びと
が理解する間もなく、信長は死を遂げてしまったのであ


       『第5章 信長の夢』 PP. 227-231     

                  この項つづく

 

 

【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
------------------------------------------- 

  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .2.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会
  6. 『安土城天主復原考』土屋純一、「名古屋高等
    工業専門学校創立二十五周年記念論文集」1930
  7. 『安土山屏風に就いて』廣田青陵、「仏教美術」
    1931
  8. 『安土城天守復原についての諸問題』城戸久「
    建築学会研究報告」1930
  9. 『安土宗論の史的意義』中尾、「日本歴史」112
    号、1957
  10. 『日本佛散史 第七巻 近世篇之一』辻善之助、
    岩波書店、1960
  11. 『安土城天守の推定復元模型』桜井成広、「城
    郭」1962/1963
  12. 『明智軍記にみる織田信長と安土城』小和田哲
    男、「城郭」1963
  13. 『安土城と城下町』小和田哲男、「城郭」1963
  14. 『信長の宗教政策』奥野高広、「日本歴史」1966
  15. 『イエズス会土日本通信 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1968
  16. 『信長公記』奥野高広・岩沢悳彦校注、角川文庫、
    1969
  17. 『イエズス会日本年報 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1969
  18. 『シンポジウム日本歴史10 織豊政権論』脇田
    修ほか、学生社、1972
  19. 『京都御所と仙洞御所』藤岡通夫編、至文堂、1974
  20. 『織豊政権』藤木久志・北島万次編「論集日本歴
    史6」、有精堂、1974
  21. 『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄、岩波書店、
    1975
  22. 『京都御所』藤岡通夫、中央公論美術出版、1975
  23. 『安土城の研究(上)(下)』内藤昌、「国華」
    987/988号、1976
  24. 『安土城天主の復原とその史料について(上)(下)
    』言上茂隆、「国華」988/999号、1977
  25. 『キリシタン宗門と吉田神道の接点-安土城出土
    の瓦について-『天道』という語をめぐって』小
    山直子、「キリシタン研究」1980
  26. 『織田政権の研究』藤木久志編、吉川弘文館、1985
  27. 『織田政権の権力構造』三鬼清一郎、吉川弘文館、
    1985
  28. 『織田信長』脇田修、中公新書、1987
  29. 『増訂 織田信長文書の研究』奥野高広、吉川弘
    文館、1988
  30. 『城と城下町』藤岡通夫、中央公論美術出版、1988
  31. 『天下一統』朝尾直弘、「大系日本の歴史8」小
    学館、1988
  32. 『織田信長と安土城』秋田裕毅、創元社、1990
  33. 『十六・七世紀イエズス会日本報告集』松田毅
    一監訳、同朋舎、1992
  34. 『信長と天皇』今谷明、講談社現代新書、1992
  35. 『安土城障壁画復元展』日本経済新聞社、1993
  36. 『平安京と水辺の都市、そして安土』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす6」1993
  37. 『復元 安土城』内藤昌、講談社、1994
  38. 『将軍権力の創出』朝尾直弘、岩波書店、1994
  39. 『安土城』「歴史群像・名城シリーズ3」学習研
    究社、1994
  40. その系譜と織豊政権における築城政策の一端』木
    戸雅寿、「織豊城郭」創刊号、織豊期城郭研究会、
    1994
  41. 『織豊期城郭にみられる桐紋瓦・菊紋瓦』木戸雅
    寿、「織豊城郭」第2号、織豊期城郭研究会、1995
  42. 『安土城の中の「天下」襖絵を読む』朝日百科、
    日本の歴史別冊「歴史を読みなおす16」1995
  43. 『近世石垣事情 考古学的石垣研究をめざして』
    木戸雅寿、「織豊城郭」第3号、織豊期城郭研究会、
    1996
  44. 『天下布武への道 信長の城と戦略』成美堂出版、1997
  45. 『安土城の惣構えの概念について1・2』木戸雅寿、
    研究紀要」第5/6号、滋賀県安土城郭調査研究所、
  46. 『安土城の天主台と本丸をめぐって』木戸雅寿、
    「織豊城郭」第5号、織豊期城郭研究会、1998
  47. 『安土城信長の夢』滋賀県安土城郭調査研究所、
    読売新聞社連載、1998~
  48. 『特別史跡安土城跡発掘調査10周年成果展 安土城・
    1999』滋賀県立安土城考古博物館、滋賀県安土城
    郭調査研究所、1999
  49. 『安土城が語る信長の世界』木戸雅寿、「駿府城
    をめぐる考古学」静岡考古学会、1999
  50. 『天下統一と城』国立歴史民俗博物館、読売新聞
    社、2000
  51. 『よみがえる安土城』木戸雅寿、「天下統一と城」
    展図録、国立歴史民俗博物館、2000
  52. 『完訳 フロイス 日本史1、2、3』松田毅一・
    川崎桃太訳、中公文庫、2000
  53. 『信長権力と朝廷』立花京子、岩田書院、2000
  54. 『塔 形・意味・技術』朝日百科、日本の国宝別冊
    「国宝と歴史の旅8」朝日新聞社、2000
  55. 『戦国大名と天皇』今谷明、講談社学術文庫、2001
  56. 『仏を超えた信長-安土城見寺本堂の復元-』、
    鳥取環境大学紀要、No.8 PP.31-51 2010.06

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安土城(3)

2014年02月12日 | 滋賀百城

 

 

 




信長の夢 「安土城」発掘

 

●天下布武

天下布武とは、ふつう天下に武を布く。つまり、武士が
イニシアティブをとって天下を治める
意であると解され
るが、安土城の調査の結果と照らし合わせると、この天
下布武という言葉のも
つ意味がより具体的にわかるよう
な気がする。

 武を布くとは、すなわち安土城とその城下町において
端的に見られるように、すべてを武士、
ひいてはその頂
点に立つ信長が束ねて采配するということだろう。寺院
や公家、座など、あらゆ
る中世的権力からの、技術、制
度の奪取と解放-。それが信長がめざしたことだった。

 その意味では、見寺は中世的な宗教のあり方を丁度
解体して、信長の管轄のもとに統合し、
政治と分離する
形で宗教を再構成する試みだったのである。

 その天下布武の構想には当然、都市建設も経済政策も
ふくまれる。

 信長が叡知を傾けて、自身の思想の発現として建築し
た安土城の下には、壮大な安土の町が広
がっていた。
 信長はこの町に通じる街道を整備して、物資と情報の
流通をうながした。

 城下では、自由に市を開くことを認め、古い特権に守
られた「座」を廃止する、いわゆる「楽
市楽座」によっ
て、大規模な規制緩和を実施した。

 『儒長公記』には、城下の様子がこう記されている。

 麓は海道往還引続き、昼夜絶ズト云事なし。 

    (奥野高広・岩沢悳彦校注『信長公記』より)




「ふもとの街道は、ひきもきらぬ往来でにぎわい、昼夜
それが絶えることはない」というのである。
 信長は「安土山下町中掟書」と題する書状を出して、
安土の城下町の建設方針を定めた。掟は、全部で十三条
からなっている。そして、その中に、次のような注目す
べきくだりがある。

一 当所中楽市として仰せ付けらるるの上は、諸座・諸
役(課役、ここでは棟別銭・兵糧米など)・諸公事(多
数の名目の雑税)等、悉く免許の事、

一 他国幷に他所の族当所に罷り越し、有り付き候は、
先々より居住の者と同前、誰々の家来たりと雖も、異議
あるべからず、(以下略)

一 喧嘩・口論、幷に国質・所質・押買い・押売り・宿
の押し借り以下、一切停止の事、

  (奥野高広著『増訂 織田信長文書の研究』より)

これらの内容を簡単に現代語に訳せば、まず一つ目のく
だりは、この安土の町を楽市として税を免除し、旧来の
「座」に握られていた特権を廃止するというものである。
 また二つ目は、他の国や他所の人間、あるいはそれま
で他の誰かにつかえていた家来であっても、安土の町に
来て定住するならば、以前から住んでいる者と差別しな
いというものである。
 さらに三つ目は、喧嘩や口論などの騒擾行為、あるい
は無理やり商品を買い取ったり売りつけたりする暴力的
な商いを禁止するというものである。
 これらの三つの項目を見ただけでも、「安土山下町中
詫言」がきわめて近代的な内容をもった都市政策を示す
ものであることがわかる。
 信長は安土の城下町を、自由な商売と安全が保障され
不当な権力や暴力から守られた場所にしようとした。そ
れと同時に、この町に住む者は、よそものであろうと差
別されないことをうたった。それどころか、労役の免除
や徳政という借金棒引きの適用除外にして、安心して商
売ができるようにするなど、さまざまな優遇策をとった。
 これは、中世の伝続から、明らかに隔絶した革新的な
政策である。中世の人びとはて殷に、自分の町や村に素
性の知れないよそものが寄りつくことを嫌ったからであ
る。戦国大名は、防衛上の理由から城下に他国の者が出
入りすることを嫌った。また、村や町は自衛上、よそも
のを中に入れようとしなかった。そのことと対比して、
安土は真の意味での近代的な都市性をもつ町であったと
いえる。
 天下布武のスローガンのもとで信長は、武士が統治の
責任を負うかわりに、民衆には最大限の経済的自由と幸
福を追求することを許そうとしていたのである
 ここでは、建築物をイルミネーションで飾るという、
きわめて幻想的かつ現代的な光景が演出された。
天正九年七月十五日、孟蘭盆会の夜-。天主と惣見寺
見寺)に提灯が吊るされ、湖上に光の幻影が浮かび上
がったのである。それは武家だけでなく、町人をも意識
したイベントだった。信長は、安土という、この人工都
市に夢と見紛う祭礼を催すことによって、天主のみなら
ず、その居城が屹立する町全体を祝祭空間と化したかっ
たのかもしれない。

       『第5章 信長の夢』 PP. 224-227     

                  この項つづく

 

【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
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  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .2.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会
  6. 『安土城天主復原考』土屋純一、「名古屋高等
    工業専門学校創立二十五周年記念論文集」1930
  7. 『安土山屏風に就いて』廣田青陵、「仏教美術」
    1931
  8. 『安土城天守復原についての諸問題』城戸久「
    建築学会研究報告」1930
  9. 『安土宗論の史的意義』中尾、「日本歴史」112
    号、1957
  10. 『日本佛散史 第七巻 近世篇之一』辻善之助、
    岩波書店、1960
  11. 『安土城天守の推定復元模型』桜井成広、「城
    郭」1962/1963
  12. 『明智軍記にみる織田信長と安土城』小和田哲
    男、「城郭」1963
  13. 『安土城と城下町』小和田哲男、「城郭」1963
  14. 『信長の宗教政策』奥野高広、「日本歴史」1966
  15. 『イエズス会土日本通信 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1968
  16. 『信長公記』奥野高広・岩沢悳彦校注、角川文庫、
    1969
  17. 『イエズス会日本年報 上・下』村上直次郎訳、
    雄松堂、1969
  18. 『シンポジウム日本歴史10 織豊政権論』脇田
    修ほか、学生社、1972
  19. 『京都御所と仙洞御所』藤岡通夫編、至文堂、1974
  20. 『織豊政権』藤木久志・北島万次編「論集日本歴
    史6」、有精堂、1974
  21. 『日本中世の国家と宗教』黒田俊雄、岩波書店、
    1975
  22. 『京都御所』藤岡通夫、中央公論美術出版、1975
  23. 『仏を超えた信長-安土城見寺本堂の復元-』、
    鳥取環境大学紀要、No.8 PP.31-51 2010.06

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安土城(2)

2014年02月11日 | 滋賀百城

 

 




信長の夢 「安土城」発掘

●技術解放

 解放されたのは白壁だけではない。日本建築におい
て、朝廷や寺院の建築物以外に瓦が使われるようにな
ったのは、実は安土城からなのだという。今回復元さ
れたコンピューター・グラフィックスを見ていただく
とわかるが、安土の城下町でも町家の屋根は、瓦では
なく板ぶきになっている。一方、城内の武家屋敷の一
部や天主は瓦ぶきになっている。
 中世では、瓦をつくる技術者は寺社が囲いこんでい
た。その結果、瓦をつくる技術のノウハウは、寺社が
独占していた。その独占を信長は、安土へ技術者を連
れてきて、安土城を築かせることによって打ち砕いた。
 『信長公記』に、京都・奈良・堺から大工や職人を
召し寄せたと記されているのは、このことをさしてい
るわけである。
 安土城以後、他の城や武家屋敷でも、信長をまねて
瓦を使うようになり、その需要が全国に瓦職人の増加
をうながし、瓦をつくる技術の伝播をもたらし、やが
てはて殷の町家の屋根も瓦でふかれるようになってい
ったのである。



 今日では日本建築の家屋といえば、屋根には瓦がふ
かれているのが当たり前のようにも思うが、そのおこ
りは安土城にあったわけである。
 しかも信長は、単に職人たちを連れてきて働かせた
だけではなかった。優れた仕事を残した職人たちには、
しばしば天下一の称号を与えて、その腕前をたたえた。
天下一とは、つまり信長が認定して職人の技術力を保
証したことになる。それは技術を自分の膝下にとりこ
む目的をもっていたからだともいえるが、同時にそれ
は、技術というもののすばらしさを信長がよく知って
いて、それを正当に評価しようとした表れでもあるだ
ろう。
 信長は大船をつくったり槍を長くしたり、軍事面で
もさまざまな技術革新をした。安土城は、そういう信
長の革新性の建築への表れであり、当時の技術の粋を
集大成する場でもあったのではないだろうか。
 広大な直線の大手道といい、七尺二寸の柱間寸法を
もつ壮大な規模の本丸御殿といい、そしてなによりも
空前の高層建築物である天主といい、こうした建築物
を建造するにあたっては、さまざまなテクノロジーの
応用と統合が試みられなければならなかったはずだか
らである。
 安土城郭調査研究所の木戸さんは、信長は自分の頭
の中だけに存在するイメージを形あるものとして実現
するために、このような技術革新にとりくんだのだと
いう。
 「ある人によれば、ヨーロッパの宣教師から、ヨー
ロッパの城の姿みたいなものも聞いていて、そういう
ものに負けないようにということで日本の中にもそう
いう建築物をつくろうとしたのだという人もいらっし
やいますけれども、安土城は信長の頭の中のイメージ
というものの表れであることは確かだと思います。
 理念というのか、信長が築こうとしている世界の具
現化ではないかということです。
 安土城天主は、誰も考えてみたこともなく、実現し
てみせたこともないような、非常にきらびやかな建物
で、しかも七階建て、地下室もあるというような建物
です。今でいえば凄い高層のビルディングみたいなも
のを試しにつくってみたということではないかと思い
ます。
 問題は、その技術力の結集の仕方ですね。たとえば
京都の一流の大工を呼んでくる。それから奈良の瓦職
人を呼んでくる。日本中のそういう技術をここに凝縮
して、そこで新たなものとして華開かせる、そういう
ことをやったということです。
 それはなんのためかといえば、要するに信長のイメ
ージの具現化ですね。そのために非常に精力を費やし
てやったということだと思います」
 自分のイメージを具体的に手触りのあるものとして
実現するために、城を建設する。それは口で言うほど
たやすいことではない。建築とは、頭の中の夢想だけ
ではできない。論理的な設計と力学的な計算と、そし
て芸術的な発想を必要とする仕事である。
 逆にいえば、安土城のような他に類例のない独創的
な建造物を構築することができた信長という人物は、
芸術的なセンスと実務的な能力を兼ね備えた天才であ
ったということになるだろう。
 木戸さんは、安土城の発掘調査を進めていくあいだ
に、信長に対するイメージが大きく変わったという。
 「調査をすることによって、安土城とか信長に対す
る、十何年前からのイメージがかなり変わってきまし
た。
 昔からよく言われていますけれども、信長は人をた
くさん殺したとか、非人情なことをいっぱいやったと
か、神になろうとしたとか、そういうイメージが非常
に強い固定観念として植えつけられています。けれど
も、彼がおこなった城づくりの調査を実際にやってみ
ていくうちに、かならずしもそうではなくて、彼の頭
の中では緻密にいろいろなものが計算されていて、そ
の計算の中から自分の世界を具現化するための方法論
を見つけて、一所懸命やろうとしていたのではないか
と感じています。
 信長は実は意外と伝統的なものを重んじているとい
う面もあるし、今自分が置かれているレベルですね、
その当時の日本の技術力のレベルをふまえて、次は何
をめざすのかということを、彼はその時点で懸命に考
えたような人だったのではないかと思います。
 だから、信長は一つの時代の活気をリードする人間
として捉えるのが正しくて、彼もやはり一人の人間と
して一所懸命考えて当時を生きていたのではないかと
いうことを、調査を通じて実感しているのです」
 戦国時代という一つの時代-旧来の常識が機能しな
くなり、新しい変革が求められた時代。南蛮という海
外の文化と出会い、それまでにない芸術が草間いた時
代。その時代の活気を信長はリードした。そして、時
代の流れを収斂させ、日本の統一をなしとげるために、
スローガンをかかげた。
 「天下布武」というスローガンである。

 
         『第5章 信長の夢』pp.221-223      

                  この項つづく

 


【エピソード】 


 
 

 

【脚注およびリンク】
------------------------------------------- 

  1. 信長の夢「安土城」発掘、NHKスペシャル、2001
    .2.17
  2. 歴史文化ライブラリー よみがえる安土城、木戸
    雅寿、吉川弘文館
  3. 滋賀県立安土城考古博物館
  4. 信長公記(原文)
  5. 安土町観光協会

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