最近、大阪に関する2冊の本を読んだ。ひとつは本渡章という人の「アベノから日本が見える」。もうひとつは谷川彰英という人の「大阪地理地名地図の謎」という本である。この2冊を読んで、大阪に関して今まで知らなかったさまざまな知識を得ることができた。それにしても、自分が住んでいる大阪なのに、これほどまでに知らないことが多かったとは、いささか忸怩たる思いでした。
★かつて大阪は「大坂」という漢字があてられていた。「大坂夏の陣」と書きますしね。ではなぜ「大坂」が「大阪」の字に変わったのか、というと、
大阪の「阪」の字が土へんの「坂」だと、土に反(か)えるとなり、死に通じてしまうので縁起が悪い。
という考えが庶民の間に広がり、こざとへんの阪と書くようになったそうです。
★難波に千日前という所があります。この千日前という名称は、むかしここに法善寺と竹林寺という寺があって、千日参りが盛んだった。そして両方を千日寺と呼び、ふたつの寺の前にあるから千日前と呼ばれた、とのこと。
★東京は「江戸八百八町」
京都は「京都八百八寺」
大阪は「なにわ八百八橋」と呼ばれるけれど、
橋の数自体は大阪は昔から多くない。東京や京都のほうがはるかに多い。しかし江戸時代、大阪は町人が自分たちで橋を作った。大阪には800弱の橋があるが、東京は3,800、京都が1,300。大阪はかなり少ない。なのになぜ八百八橋なのか?
それは、
大阪の橋はひとつの橋の面積が他の都市より大きい。市域面積に占める橋の面積の割合は大阪は東京の2倍以上、京都や神戸の約10倍。橋一つ一つへの思い入れが違う。…というようなことも、書かれていました。
ところで、
江戸時代は「天下の台所」として活気があった大阪ですが、明治の世になって一気に衰退した。その衰退した大阪を復興させた「大阪の恩人」と言われた男がいた。その男の名は、五代友厚(ともあつ)。
え? どこかで聞いた名前やな、と思われる方も多いかと思いますが、それはまたあとで。
彼は大坂証券取引所や商工会議所の先駆けになるものを作り、造幣局も誘致した。大阪のために大いに頑張り、大阪経済を見事に復興させた。明治2年30代なかばで事業家となり49歳で亡くなるまで、大阪のために大いに頑張った。
…というようなことも書かれていました。
で、この五代友厚は、3年前の朝ドラ「あさが来た」でディーン・フジオカさんが演じていました。といっても、僕は当時、朝ドラは見ていなかったので、ストーリーはむろん、五代友厚も知りませんでした。なにか「五代ロス」というような言葉が流行語になり、その時初めて「あさが来た」のドラマの話だったことを知ったわけです。
読んでいた本で、大阪の経済復興に大きな業績を残した人物として五代友厚が出てきたとき、それほどの人物だったのかと感慨深かったです。
僕は今「まんぷく」を見ていますが、朝ドラを欠かさず見始めたのは「わろてんか」が初めてで、その後の「半分、青い。」もすべて見て、そして「まんぷく」も面白いなぁ、と思いながら見ています。今さらながらですが、朝ドラファンになったのです。
そんな時、あれは11月の初旬、NHK総合で月~金の午後4時20分から「あさが来た」の再放送が始まりました。1日に2回分放送するので、録画して30分間で2本見ています。
「あさが来た」は、21世紀の朝ドラ史上、最高視聴率を記録したドラマでもあるらしいです(前世紀は「おしん」の視聴率がダントツですから、これを超えるドラマは永遠に出ませんよね)。
物語のほうは、今は主人公のあさが五代友厚の話を聞き、彼の大阪経済復興への熱い思いを知る、というあたりです。
今ごろ3年前の朝ドラについてあれこれ言うのもナンですが、その再放送で、ディーン・フジオカさんを見たことと、僕が本で五代友厚に関することを読んだことが、時期的にちょうどピッタリ重なったので、強い印象を受けたのです。
ちなみに、ドラマの主題歌、AKB48 の「365日の紙飛行機」は、いつかモミィがCDをかけて聴いていたのを覚えています。「あさが来た」の再放送の第1回目を見た時、この歌が出てきたので、これにもビックリでした。でも、毎日聴いているといい歌ですね~。AKB48 と聞いただけで「僕らの世代は付いていかれへん歌や」という先入観も、これで少しは消えました(笑)。
五代友厚のことから朝ドラの話になってしまいましたが、話を戻して、大阪に関する興味深い事実を知ったので、最後にそれに触れます。
先ごろ、2025年の大阪万博開催が決まりましたが、それに関連して、明治時代のことですが…
冒頭にご紹介した「アベノから日本が見える」によると、
五代友厚らの努力が実って勢いを取り戻した大阪。1903年(明治36年)に内国勧業国際博覧会(日本初の万博)が天王寺で行われ、大阪経済はますます発展し、一時は東京を上回る人口になった。その博覧会では、自動出閉器(自動ドア)とか、冷蔵庫などが初めて登場したという。
その博覧会の膨大な跡地がどうなったかというと…
1912年(明治45年)、跡地の半分に新世界の街がつくられ、さらにそこに通天閣も建てられた。そして、跡地のもう半分が天王寺公園になった…。ということでありました。ちなみに通天閣は昭和18年に火事で黒焦げになり取り壊し。昭和31年に今の2代目ができた、とのことです。
新世界と天王寺公園のあの場所で、今でいう万博が明治時代に開催されていたということも、初耳でした。
ウオーキングの際、少しでも大阪の知識があれば面白いだろうな、と思って読んだ2冊ですが、とても興味深く読めました。
話が断片的で、しかもあちこちに飛んで、失礼しました。
かんにんしてね。