「ノナの家」nonahouseは かつこ内親王、かつこ内親王2の続きのブログです。

神様達の名前は、沢山出てきますが、宗教とは全く関係ありません。
mikunenona@gmail.com

坂本八幡宮の話 その2

2019-06-13 07:30:49 | 日記
5月19日に、Sさんから、朝早くにお電話がありましたが、きちんとお話しすることが出来ずにいて、改めてお電話で話したのは、彼女から📩が来てからでした。


Sさんの📩


M子様

今朝は朝早くお電話して失礼いたしました。
遅くなりましたが、坂本神社の写真とご報告です。

坂本神社は、狭い敷地にそぐわず、駐車場がとても広々としていました。
車を停めて見渡すと、梅の木が、生垣のようにズラリと四方を囲んでいて、「うわぁ、たしかに梅の木だらけだぁ」と叫んでしまいました。



そして、車を降りて神社に向かうと、駐車場の敷地を出る手前、神社から数メートルのところに、石で囲まれた結界を結んだようなところがあり、竹筒がぶら下げてあって、その中に、赤飯とか干し大根?のような、干からびた食べ物が入っていました。



まだ朝の7時で、御朱印の受付は9時からなのにもかかわらず、並んでいる人も4〜5人いました。
ちょっと人目が気になりましたが、ムースを置くなら、きっとここなかぁと。
私がゴソゴソと、クーラーボックスから、ムースを取り出し、夫の田舎から美味しい新茶を送ってもらったばかりだったので、お茶も添えてみました。
ムースだっら、コーヒーか紅茶が良かったですかね(笑)
ムースは、前日の夕方から探し始めたので、思うようなものがなく、結局、手作りすることにしました。
お菓子作りなんて、20年ぶりぐらいで、自信は全くなかったのですが、梅の精さんたちは、たくさんいらっしゃると伺っていたので、ドーンと作って、スプーンを多めにつけてみました^_^
ちなみに桃缶のムースです。



私がゴソゴソ並べていると近所のおじいさんが、「ここには何があるとね?」
と聞かれたので、「わ、わたしもわかりませんけど…」
としどろもどろで答えていると、「今までは、な〜んにもなかったけど、「令和」になって、急にこんなのができたんよねえ。」
と言って、神社へ向かわれました。
私は、自信はないものの、ここしかないよね〜と思い、小さな声で、唯一、ソラで唱えられるあわの歌を唱えて、そそくさとムースを片付けて、神社の敷地に入りました。

伽藍さまにも和菓子を供え、猿田彦さまの石には、お酒を撒いて、本殿でお参りし、しばらくいた後、車に戻りました。そして、車を出す直前、気がつきました。

ムース食べてなかった!と。

慌てて、車の中で、夫と二人で、窓を開けて食べましたが、そんなんで、良かったのでしょうか?
梅の精さん、失礼があったらごめんなさい。不慣れで、役不足なもので…

そして、帰り道にもう一つ石碑がありました。








大伴旅人さんは、太宰府に来てすぐ、奥様を亡くされたんですね。
酒壺になりたいと歌を詠んだくらいの酒好きだったとの記述がありましたが、さぞかし当時は寂しくて、きっと飲まずには、いられなかったんでしょうか。
最近は賑やかになってきて、喜ばれていらっしゃるのかな?

というわけで、すっかり長くなってしまいましたが、
梅の精さんたちにムースを届けるなどという素敵なお使いができて、本当に楽しい一日でした。
坂本神社は、とても素敵な場所で、20分かからないぐらいのところだったんです。
これからは、ちょくちょく、お参りに行こうと思います。M子さんに感謝です。
ありがとうこざいました。



大伴旅人を調べてみて、やっぱり驚いてしまいました。


🌟大伴 旅人(おおとも の たびと)は、飛鳥時代から奈良時代にかけての公卿・歌人。
名は多比等とも記される。大納言・大伴安麻呂の長男。官位は従二位・大納言。

生誕 天智天皇4年(665年)
死没 天平3年7月25日(731年8月31日)

養老4年(720年)2月29日に大隅守・陽侯史麻呂の殺害に端を発した隼人の反乱の報告を受け、3月4日に征隼人持節大将軍に任命され反乱の鎮圧にあたる。
5月頃軍営を張り、6月中旬までには一定の成果を上げる。
その後、8月3日に右大臣・藤原不比等が亡くなったことから、8月12日に旅人は京に戻るよう勅を受ける。

神亀5年(728年)頃大宰帥として妻・大伴郎女を伴って大宰府に赴任する。
60歳を過ぎてからの二度目の九州下向であったが、この任官については、当時権力を握っていた左大臣・長屋王排斥に向けた藤原四兄弟による一種の左遷人事、あるいは、当時の国際情勢を踏まえた外交・防衛上の手腕を期待された人事の両説がある。


私が、驚いたのは、藤原四兄弟の中に、前回の四国の話の藤原房前(ふじわらのふささき)がいるからです。

『万葉集』には房前である藤原北卿とあり、大伴旅人への答歌等が見られるそうですよ。
年齢は違いますが、同じ時代を生きていた人達なのですね。


旅人が九州にいる間に、神亀6年(729年)に長屋王の変で左大臣・長屋王が自殺、天平2年(730年)9月には大納言・多治比池守が薨去と大官が次々と没したことから、旅人は太政官において臣下最高位となり(太政官の首班は知太政官事・舎人親王)、同年11月に大納言に任ぜられて帰京する。
翌天平3年(731年)正月に従二位に昇進するが、まもなく病を得て7月25日に薨去。享年67。


大変な時代だったのだと思いました。

そして、次の日に、梅の精が話してきました。


続きます。

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坂本八幡宮の話

2019-06-12 07:30:05 | 日記
今年の4月1日に元号の発表ががあり、5月1日から、「令和」になりましたね。




「令和」とは、万葉集の梅の花の歌からということがニュースになっていました。


🌟「令和」の典拠は、『万葉集』巻五の「梅花謌卅二首并序(梅花の歌 三十二首、并せて序)」にある一文である。

この序文は天平2年1月13日(グレゴリオ暦730年2月8日、ユリウス暦730年2月4日)、大宰帥(大宰府の長官)である大伴旅人(おおとものたびと)の、大宰府政庁近傍にある邸宅で催された宴の様子を表しており、「梅花の宴」とも呼ばれる。
作者については、旅人や山上憶良(やまのうえのおくら)らが挙げられている。

大伴旅人の邸宅は政庁の北西、現在の坂本八幡宮(現・福岡県太宰府市)付近と考えられている。


✨時ときに、初春しよしゆんの「令」月れいげつにして、気き淑よく風かぜ「和」やはらぎ、梅うめは鏡前きやうぜんの粉こを披ひらき、蘭らんは珮後はいごの香かうを薫かをらす。


私は、帰りの電車でネットニュースを見ていて、坂本八幡宮の氏子の方々が、沢山の人達が押し寄せたために、ダウンしてしまったという記事を読んで、大変だなぁと思っていました。

そのことについても、Wikipediaに載っていました。

🌟坂本八幡宮(さかもとはちまんぐう)は、福岡県太宰府市坂本にある八幡宮。
登記上の宗教法人名称は八幡神社(はちまんじんじゃ)。元号「令和」のゆかりの地とされる。

新元号ゆかりの地として一躍脚光を浴びるようになった。
以前の参拝者は1日あたり20人ほどだったが、「令和」発表直後には3000人に急増したという。

「令和」発表後に参拝者が激増したことを受けて、令和初日の2019年5月1日午前0時から「御朱印」の授与が開始された。

ゴールデンウィーク期間中ということもあって、御朱印を求める長蛇の列ができた。
初日の5月1日には、約1万5000人が行列に並んだ。
連日5000人以上の参拝者が殺到し、その対応で氏子らが極度に疲弊したため、7日から見合わせられた。
その後、全国的な再開要望を受け、5月18日より授与が再開された。
坂本八幡宮に限ったことではないが、早々に御朱印がヤフオク!に出品され、波紋を呼んだ。


私は、以前にも書いたように御朱印は集めていないのですが、最近御朱印はブームになっていて、明治神宮でも大変な行列になっていると聞いていたし、並んでいる人達が御朱印を書いている方に心ないことを浴びせたり、すぐに高く売っていたりで、一体どういうことなのだろうと思ってしまいます。

実際、神社の収入源ということを考えると沢山の方がいらっしゃるのは、ありがたいことでしょうが、来年になったらどうなのだろうと、考えてしまいました。


私がふと思ったことですが、大宰府というと、最近お知り合いになったSご夫妻は坂本八幡宮のお近くにお住まいなのかな?とお電話したことから、話は始まりました。


Sご夫妻と初めてお会いしたのは、今年の荒熊神社の節分祭の時でした。
以前からたまにコメントはいただいていて、今回お会い出来ればと言われていたのですが、当日、どの方かと思っていると、すっかり荒熊神社のスタッフのようになっていて、驚きました。
もっと、驚いたのは、福岡から車でいらしたと聞いたからです。
年代的には、私とあまり変わらないので、なんと元気なのかと感心していると、今回の「魂の会」もご参加いただいて、車で前日に出雲に行かれての参加と聞いたので、本当にご夫妻共に体力ありますね。

私がお電話で坂本八幡宮の話をすると、すぐに「行ってみます」とのお返事でした。

そのことで話してきたのは、カラツの神でした。


5月18日


カラツの神です。
ありがとうございます。
M子さんのことは、私が守ります。

ありがとうございます。

新しい元号になって、半月が過ぎましたね。
鎮魂の中ではなくて良かったです。
「おどかし」の話をしていましたね。


讃岐の龍神の話ですか?


人は、とても驚くのです。
目立って動くと驚くので、見えないようにしています。
霊能者と言われる人達は、見えたり聞こえたりするので、周りの人が去って行くことが多いので、言わないようにしている人が大半です。
M子さんの能力は、特殊なのです。
目の前にいても感じないですが、Iさんは感じるので、本当にいい関係ですね。
縁がまた新たに出来るでしょう。
明日の話ですよ。
S夫婦は、坂本神社に行くと言っていましたね。


坂本神社には、何を持って行けばいいですか?


強いて言えばムースですね。
お菓子のムースが好きだと言っていました。


どの神様がいらっしゃるのですか?


坂本神社にいるのは、梅の精ですよ。
梅の精が話したいと言っています。


私は、また不思議な梅の精の話を聞くことになりました。
カラツの神は、坂本八幡宮とは言わず、坂本神社と言っていましたが、梅の精も同じでした。


梅の精です。
坂本神社に人が沢山来て、大変です。
今までほとんどいなかったのに、「令和」のお陰ですね。
世の移り変わりは、ずっと見ていました。
目立ったことがなかったので、私も緊張しています。


カラツの神が、梅の精さんは、ムースが好きだと言っていましたが、、、


好きなのはムースです。
プリンよりムースが好きです。


Sさんに、伝えておきます。


お願いします。


梅の精さんは、ひとりなのですか?


梅の精は、沢山いるのです。
「梅花の宴」が開かれたのは、1000年以上前のことですけどね。


大伴旅人(おおとものたびと)がいたのですか?


大伴旅人が近くにいたので、開かれたのです。
旅人は、いい人でしたよ。
私達は、好きでした。


私がIさんに、この話を伝えると、


僕もムースが好きなので、気が合いますなー。


と、言っていましたが、プリンもケーキも好きなので、限定ではないように思いました。(笑)


そして、次の日の朝にSさんから電話がありました。


続きます。
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竹生島の話

2019-06-10 07:30:55 | 日記

Nさんの📩の続きです。

竹生島に行かれた時の話ですね。

私は、もちろん行ったことはないのですが、以前に記事にしたことがあったと思い出していました。

2015,1,19に記事はありました。


🐶弁財天の話

https://blogs.yahoo.co.jp/minako_aragami/70074833.html


まだ、Iさんとお会いする少し前でしたが、彼がコメント入れてくれていたのだなと思いました。


Nさんの📩


竹生島は船便の関係で、基本的には上陸時間は75分なのだそうです。
私は友達と会う約束があったので、今津港を出て彦根港に帰る上陸時間95分のルートを取りました。

75分で時間を持て余している人もいましたが、私には95分でも足りませんでした。
水辺の鳥たちの営巣地になっているのか、鳥と小さな生き物の楽園といった感じの島で、とても気持ちがよかったです。



帰り道、竹生島を後にする船の中から遠ざかってゆく島を見て、寂しいというのか去りがたいというのか、涙が出ました。そのくらい素敵な島でした。



「面向不背の珠」は、ガラス玉を4つに割ってそれぞれにご本尊と脇侍を配し、つなぎ目を金具で装飾してわからないように玉に仕立てなおしたような造りでした。

今の技術や素材を使えば簡単に作れそうなものでしたが、あの時代にこの透明度を保ったままどうやって作ったのだろうと、とても不思議です。










志度から来たと言うと、係のおじさまが、ご親切に、以前興福寺であった志度寺縁起の展示の時のパンフレットのコピーをわざわざくださいました。

現在、香川県立ミュージアムで同じ志度寺縁起絵巻の修復記念展示がされていますが、そのパンフレットの内容とは微妙に違っていました。
龍神に奪われた説と、荒天を鎮めるために珠を差し出した説があるようです。


珠の大きさは直径12cmくらいでしょうか、大きく見えました。
これを乳房に隠そうと思えば、相当の覚悟で身を切らねばなりません。私も乳房は一般より大きい部類だと思いますが、それでもこれ入るかな?簡単には隠せないだろうな、というサイズ感のものでした。

けれどもふと、電話でお聞きした「死んでもなお好きだった」というフレーズが思い出され、私がもし彼女なら、やはり迷った末に愛する人の願いを受け入れ、決死の覚悟でもってそれを遂行しただろうと思います。

先日、恐怖心と闘いながら、これで何かが変わるのならと、壁から龍を下ろした時のことを思い出していました。

竹生島の弁天さんが、なぜ一族の女性の中で、叔母でも姉でもなく私を呼んでくださっているのか、真珠島の弁天さんを訪ねただけで真珠島の弁天さんが私が来てくれたと喜んでくださるのか、私にはわかりませんが素直に嬉しいです。


もしかして私、前世でこの海女さんとなにかご縁があったのでしょうか。
今はもう海女の墓は柵で囲われ、顔出しパネルが置かれて観光の種にされているような感じです。

子供の頃楽しみにしていた、海女の命日を偲ぶ十六度市は何十年も前に取りやめられ、市が立っていた場所はお寺が経営する老人施設になっています。
ただの伝説と思っていましたが、本当にあったことで、誰かがなにかを必要とされているのなら、教えてくださいね。

できる範囲で対応・努力します。


小田和正さんのコンサートは来週の四日市公演からの伊勢神宮初参拝と、愛媛公演を残すのみとなりました。


時代の変わり目が私の人生の中での大きな大きな変わり目ともなりました。


実家は無くなってしまったけれども、悪い龍のお蔭でM子さんとのご縁をいただけたこと、ミクネの神様から教えていただけたこと、シドの神様の加護を知れたこと、代々お世話になってきたであろう弁天さんたちにご挨拶ができたこと、Iさんにご縁を繋いでもらえたこと、瀬田のおじさまや満濃池の龍神さんたち眷属の皆様にもなんだか親近感を持ってウキウキできること、どれもこれも有り難く、私にとってはひとつひとつのお話が大切な宝ものになりました。


お忙しい中長くていつもすみません。本当にありがとうございました。


その後の📩


6月2日に四日市でコンサートがあり、友達と熱田神宮にお参りします。
3日は同じく2人で伊勢神宮にお参りしてからその友達とは分かれ、
翌4日は後から来る主人と合流して荒熊神社さんに伺う予定です。

夫が子供の頃、祖父母の保養地?かなにかでよく訪れていたという浜名湖を前から見たいと言っていたのですが、今回名古屋まで行くなら近いからと、連れて行ってくれることになりました。


そこの最寄駅が「弁天島駅」でちょっとびっくりしています。そこも弁天さんが祀られているようなので、お社が分かればご挨拶してこようと思います。


Nさんは、本当に激しく動いていました。

まさか、私は荒熊神社さんにも行かれるとは思いませんでした。

つぶて浦の鳥居では日輪が出たそうです。



そして、私の建てた鳥居と並んだ写真も送ってくれて、ずっと悩んでいたことから、解放されたような明るい笑顔でした。


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真珠島の弁天の話 その2

2019-06-08 07:30:21 | 日記
私が、Nさんに前回の話から


竹生島の弁天様が、あなたに来て欲しいと言っていて、Iさんも同じことを感じていたみたいなの。


と、電話でお話しすると、彼女からまた長い📩がきました。

個人的な話も多いので、抜粋してみると、


M子さま

いつもありがとうございます。
お電話うれしかったです。
記事化、ありがとうございました。


【中略】


それと弁天さんのお話、驚きました。
昔、祖父が買って住んでいた家が真珠島(しんじゅとう)脇の弁天という地にあり、私の両親も結婚したときはまだそこに住んでいたそうです。
昔造りのお屋敷で薄暗く、ご不浄の壁には刀がかけられていて、用を足しに行くのがそれはそれはこわかったとのことでした。
今でも昔の話しをするとき、身内は皆「弁天の家」という呼び方をします。
叔母はその生家があった裏手にある祠の弁天さんが守ってくださっていると誰かに聞いたそうで、隣市からよくお参りに行っているようです。

元あった弁天の家のすぐ脇は昭和30年頃まだ綺麗な海で、泳ぐこともでき、夜になると波打際で夜光虫がたくさん光って美しかったということです。
後に高度経済成長期の頃からか、臨海工業団地を造成するため埋め立てが行われたそうで、その埋め立てに使った土は、山を半分削って充てたそうです。山半分分なのでかなりの量と思います。

竹生島に呼ばれているのでは、とのお話、今月24日に大阪に行く用がありますのでその時に行けたら伺ってきますね。

【中略】

来週(5月)13日(月)〜15日(水)に上京します。
14日の夜が小田和正さんのコンサートで、2泊とも横浜市のホテルに宿をとりました。
平日なので難しいと思いますが、もし直前になってお茶でもご一緒できる時間があれば、ご指定の場所に伺いますのでご連絡くださいね。


ということで、まさかのこのタイミングに四国のNさんと、13日の夜にお会いすることになりました。

それまでに何度か電話で話していたので、二時間くらいをずっと笑いながら話していました。
とはいえ、5月20日にはご実家を、開け渡さないといけない直前だったし、いろいろな悩み事もあるようで、そういう話も聞いていました。

やっぱり、ご縁は面白いものですね。
彼女が私に初めて📩をくれたのは、4月11日だったので、1ヶ月後にお会いすることになるとは、本当に驚きでした。


その後のNさんの📩


M子さま

昨夜は月曜日の仕事帰りにもかかわらずお時間作ってくださりありがとうございました。
最後にコーヒー飲んでしまったからか、2時頃目が覚めてそのまま眠れず(^_^;)
初めて見た振り子の動きに驚きました。ありがとうございました。
厚かましくも、あれこれ聞いていただき、すみませんでした。



昨夜の小田さんコンサートは、追加公演初日なのと地元横浜ということで盛り上がって、とても感動しました。
友達がチケット当選してくれたおかげで、横浜に来られてM子さんにも直接お会いすることができたし、普段会えない友達にも会えてとても楽しく貴重な時間を過ごせました。



昨夜、無事に家に着きました。

昨日、スカイツリーで(トーキョー)サイダーも手に入れました。
待ち時間ほとんどなく展望台にも上ることができました。
残念ながら富士山は見えていませんでしたが関東平野は広いですね。






深川不動さんにも行けて、太鼓聞いてきました。
のんびりしていたら帰りに乗る電車を間違えて、さらに電車が運転見合わせとかで、飛行機間に合わないかとオロオロしました。
都会に住む人たちの大変さがよくわかりました。

ありがとうございました。


それからNさんは、真珠島の弁天様のところに行ってくれました。


トーキョーサイダー、優しい甘さときつくない炭酸の入り具合で、美味しかったです。



昔の家があったところの弁天さんも初めて参りしてきました。竹生島へは23日に伺います。





そして、次の日の朝に真珠島の弁天が話してきました。


続きます。
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真珠島の弁天の話

2019-06-07 07:30:04 | 日記

前々回6月2日の記事「剣山(つるぎさん)の神様」の中で、私とIさんのやり取りの続きの話です。

抜粋すると、


満濃池(まんのういけ)にツナの龍神の奥さんはいたみたいと言ったら、Nさんが行ってくれて写真を送ってくれたの。


ブログの四国のNさんは、竹生島(ちくぶじま)に呼ばれてるのー


そうなの?


そーだな。
ま、ねーさんだから神様にきいてみたらどーかな。


次の日(5月10日)の朝に、振り子を持つと、話してきたのは、Iさんが言っていた竹生島の弁天でしたが、いきなりだったので、やっぱり驚きました。


Nは、私が呼んでいますよ。


どなたですか?


竹生島の弁天です。


なぜ、呼んでいるのですか?


近くに弁天がいるでしょう。


多分そうみたいですね。


私の代わりにいるのですよ。

時間が出来たら、来てくださいと、伝えてください。


私は、Nさんの📩の中に、弁天様の話があったことは、覚えていましたが、詳しくはよくわからなかったので、今一度📩を見直して、彼女が丁寧に貼り付けてくれた資料を読んでみました。


初めはNさんの「シドの神の話」の最後に入れていたことだったのかと、今下書きをしながら思っています。

抜粋すると、


最後に、余談ですが実家のあるさぬき市には志度(シド)という街があり「死渡」が語源だという説があります。
地理的には香川県の東部に位置し、鳴門にもそう遠くないし、ふと「死渡」ってアトランティス?根の国の入口?とブログを読み始めて思いました。
ここは藤原の不比等さんにまつわる「海女の玉取り伝説」(龍神さんに宝物の玉を奪われた不比等さんが身分を隠して奪還のために訪れ、当地で恋仲になった海女さんが命がけで龍神さんのもとに玉を取り返しに行く)もある土地です。


彼女が貼り付けてくれた物語を記してみます。



海女の玉取り物語」は国の重要文化財の「志度寺縁起」第二巻『讃州志度道場縁起』に記されている伝説です。

それはおよそ1300年前…大化の改新を成し遂げた藤原鎌足の息子・藤原不比等(ふじわらのふひと)は自分の妹を、現在の中国にあたる唐の高宗行程に嫁に出し、高宗妃になった妹から宝玉『面向不背の玉(めんこうふはいのたま)』を1つ賜り、日本に持って帰っていました。
しかしその宝玉は途中で竜神に奪われてしまいます。

親睦の証として宝玉を賜ったにも関わらずそれをなくしてしまった不比等。
彼は身分を隠し、なんとかその宝玉を取り返すべく今の志度の地にとどまります。
そこで出会ったのが、現在の志度の「天野」地区の由来にもなった漁師一族の娘の海女。
二人は恋仲になり、子ども(房前)を生みます。しかし、幸せは長くは続かず、不比等は本来の目的である龍神からの宝玉の奪取のことを海女に伝えます。

すると海女は、自分の命と引き返えに宝玉を奪ってくるだから、房前(ふささき)を藤原家の正式な跡取りとして欲しいとお願いし海に飛び込むのです。
龍神との死闘の末、海女は自分の胸を切り裂いて、乳房に宝玉を隠し持ちなんとか志度の真珠島に戻ってきたのです。
しかし、海女は不比等に玉を渡すとそのまま静かに息を引き取りました。

それから房前は藤原家を嗣ぎ、若干13歳で大臣となっていた房前は東大寺建立のため全国を行脚していた行基について志度に訪れ、母の死の理由を知ります。

そして、房前は母である海女を偲んで志度寺の堂を広く立て直し、そこに千基の石塔を建てたと言い伝えられています。
房前はその後も活躍し、藤原家のその後の栄華へとつながっていくわけとなります。

海女が息を引き取った真珠島では現在でも真珠神社としてさぬき市志度に残っています。
10月6,7日に行われる多和の秋祭りの次の週末には、志度寺にてお経があげられています。

藤原家が活躍した平安時代は父方の血筋より母方の血筋が重要とされた時代。
はっきりとした素性のしれない海女のことは藤原家の家系図には記されておらず、歴史の表舞台にその名を刻んではいません。

しかし、平安末期のプリンス、後白河天皇が今様の和歌を記した「梁塵秘抄(りょうじんひしょう)」に志度という地名が登場する程、朝廷では志度はなんらかの理由で名の通った土地だったことは窺い知ることができます。


そして、なんとこの記述が、、、


海女が取り返した宝玉『面向不背の玉』はその後は無事に興福寺に届けられ、現在は滋賀県の琵琶湖に浮かぶ竹生島の宝厳寺(ほうごんじ)におさめられています。

🌟『面向不背の玉(めんこうふはいのたま)』

前から見ても後ろから見ても表裏がなく美しく見える玉。


あぁ、だから竹生島の弁天がNさんに来て欲しいと言っていたのか。。。

そして、Iさんにもそれが伝わったのだなと、私は今改めて思いましたが、その時は訳もわからず、Nさんに伝えようと電話をしていました。


続きます。

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