ヤエさんは、テレビドラマの半沢直樹に似ている。
いつも微笑んでいるような、あの役者さんにそっくりだ。
「今まで気持ちをわかってくれる人がいなかったから
みりこんさんに出会えて本当に嬉しい」
ただでさえ柔和な面立ちをいちだんとほころばせ、いつもそう言う。
自由が、相手の死によってしか得られないと知りゆく哀しみ。
誰よりも解放を望みながら、共存を願う矛盾。
荒野の決闘場にたたずむガンマンのように
「先に死ぬのはヤツか俺か…」
とつぶやきたくなる時だってある。
おそらくヤエさんと似た心境だとは思うが
口先で適当に合わせているだけの時もあり、気恥ずかしい私である。
私はその日、彼女の歴史を聞いてみようと思った。
「亀松おじいちゃん」「鶴代おばあちゃん」などと
それぞれ名前をくっつけないとわかりにくい家族構成から
複数の老人に捧げた結婚生活の様子は想像できたが
人数が多くてややこしいし、会えば遊ぶのに忙しいしで
詳しく聞いたことは無かった。
ちゃんと聞いて、真面目に考えようと思ったのだ。
「いっぺん、きちんと教えてよ」
私の要望に応え、ヤエさんは老人歴を話し始めた。
客観的で整然とした説明である。
聞いた後、私が彼女の気持ちをわかっているかどうかは
はなはだ疑問となった。
今まで誰にもわかってもらえなかったと、言うはずである。
わかるわけがない。
現代の日本で、これほどの年寄りまみれは珍しい。
ヤエさんの壮絶は、40年前の結婚当初
大舅、大姑、舅、姑との同居から始まる。
嫁ぎ先は、長生きの家系であった。
「承知で嫁いだのだから」と、3人の子供を育てながら
家事一切をこなし、パートに出るかたわら
時間差で動けなくなる老人を何年にも渡って次々に介護した。
見送ったのは大舅、大姑、舅、それから姑の母親の計4人。
大舅と大姑亡き後、姑が突然、自分の母親を引き取った。
姑の母親は、ヤエさん一家と10年過ごして亡くなった。
この人だけ、入浴中の突然死だった。
介護が無いとなると、何もしなかったギャラリーほど死因で騒ぐ。
「年寄りを夜遅く風呂に入れるなんて」
「年寄りを一人で入浴させて」
ヤエさんは、姑とその姉妹にさんざん責められたという。
その後、舅が寝つき、10年介護して見送った。
そして現在、年寄り達の世話を全くしなかった90才の姑が残っている。
壮絶な半生の中で、ヤエさんの良き相棒となったのは料理だった。
みんなの喜ぶごちそうを並べれば、少なくとも食べ終わるまでは
大小の舅姑から繰り出される小言がゆるむ。
パーティー料理は、一旦取りかかったら案外早くできあがるし
オードブル形式で大皿に盛れば、後片付けも早い。
たくさん作って人を呼んだら、その間の安全も確保される。
栄養なんて言っていられない。
いびり殺されないための自衛策だ。
私にもその経験はあった。
他人ならではの曲解と思い込みによる、皮肉と罵倒の暮らしの中で
たまに聞く「おいしい」は、「ありがとう」の代用品となり
元気が出たものだ。
うるさい者には、わかりやすい物を与えれば静かになる。
体のことを考えた、手間だけかかって見栄えのしない料理なんか
攻撃の材料を与えて自分の首を絞めるだけだ。
したがって夫の両親の糖尿病発症に
少なからず私が関与している疑いは濃厚である。
ともあれ老人問題は、生死やあの世が関わっているので
道徳心が自分の意思を制限してしまう。
嫌なことを嫌と言えなくなるのだ。
一般的に弱者と呼ばれているからには攻撃しづらいし
「嫌になりました、さようなら」と
髪ひるがえして立ち去りにくい。
浮気より老人の方がよっぼどきついと思うのは、この点である。
出口の見えないトンネルの中で苦しんだあげく
恨みや憎しみを超越した崇高な存在になりたがるのは
自然な成り行きといえよう。
最初は安全確保の手段だった料理が、やがて功徳と名を変え
人間でないものに近づくチケットに見え始めた…
それを誰が責められようか。
たった2人でネを上げた私は、功徳なんて思いつきもしなかったぞ。
何もせず、悟りだけひらきたいと願っていた。
高い所から下界を見下ろして「あらあら、大変ねえ」と
言えるようになれたらどんなに楽だろう…
その野心だけだった。
人でないモノに憧れて、結局なれたのは
「人でなし」くらいのもんだ。
「すごいね、よく頑張ったね。
私には無理だわ!」
そう言うと、ヤエさんはハラハラと涙を流し
「報われた」と言った。
でも…とヤエさんは再び顔をくもらせる。
「おばあちゃんの呪いの方は、私の中でどう処理したらいいの?」
そういえば、まだその問題が残ったままであった。
《続く》
いつも微笑んでいるような、あの役者さんにそっくりだ。
「今まで気持ちをわかってくれる人がいなかったから
みりこんさんに出会えて本当に嬉しい」
ただでさえ柔和な面立ちをいちだんとほころばせ、いつもそう言う。
自由が、相手の死によってしか得られないと知りゆく哀しみ。
誰よりも解放を望みながら、共存を願う矛盾。
荒野の決闘場にたたずむガンマンのように
「先に死ぬのはヤツか俺か…」
とつぶやきたくなる時だってある。
おそらくヤエさんと似た心境だとは思うが
口先で適当に合わせているだけの時もあり、気恥ずかしい私である。
私はその日、彼女の歴史を聞いてみようと思った。
「亀松おじいちゃん」「鶴代おばあちゃん」などと
それぞれ名前をくっつけないとわかりにくい家族構成から
複数の老人に捧げた結婚生活の様子は想像できたが
人数が多くてややこしいし、会えば遊ぶのに忙しいしで
詳しく聞いたことは無かった。
ちゃんと聞いて、真面目に考えようと思ったのだ。
「いっぺん、きちんと教えてよ」
私の要望に応え、ヤエさんは老人歴を話し始めた。
客観的で整然とした説明である。
聞いた後、私が彼女の気持ちをわかっているかどうかは
はなはだ疑問となった。
今まで誰にもわかってもらえなかったと、言うはずである。
わかるわけがない。
現代の日本で、これほどの年寄りまみれは珍しい。
ヤエさんの壮絶は、40年前の結婚当初
大舅、大姑、舅、姑との同居から始まる。
嫁ぎ先は、長生きの家系であった。
「承知で嫁いだのだから」と、3人の子供を育てながら
家事一切をこなし、パートに出るかたわら
時間差で動けなくなる老人を何年にも渡って次々に介護した。
見送ったのは大舅、大姑、舅、それから姑の母親の計4人。
大舅と大姑亡き後、姑が突然、自分の母親を引き取った。
姑の母親は、ヤエさん一家と10年過ごして亡くなった。
この人だけ、入浴中の突然死だった。
介護が無いとなると、何もしなかったギャラリーほど死因で騒ぐ。
「年寄りを夜遅く風呂に入れるなんて」
「年寄りを一人で入浴させて」
ヤエさんは、姑とその姉妹にさんざん責められたという。
その後、舅が寝つき、10年介護して見送った。
そして現在、年寄り達の世話を全くしなかった90才の姑が残っている。
壮絶な半生の中で、ヤエさんの良き相棒となったのは料理だった。
みんなの喜ぶごちそうを並べれば、少なくとも食べ終わるまでは
大小の舅姑から繰り出される小言がゆるむ。
パーティー料理は、一旦取りかかったら案外早くできあがるし
オードブル形式で大皿に盛れば、後片付けも早い。
たくさん作って人を呼んだら、その間の安全も確保される。
栄養なんて言っていられない。
いびり殺されないための自衛策だ。
私にもその経験はあった。
他人ならではの曲解と思い込みによる、皮肉と罵倒の暮らしの中で
たまに聞く「おいしい」は、「ありがとう」の代用品となり
元気が出たものだ。
うるさい者には、わかりやすい物を与えれば静かになる。
体のことを考えた、手間だけかかって見栄えのしない料理なんか
攻撃の材料を与えて自分の首を絞めるだけだ。
したがって夫の両親の糖尿病発症に
少なからず私が関与している疑いは濃厚である。
ともあれ老人問題は、生死やあの世が関わっているので
道徳心が自分の意思を制限してしまう。
嫌なことを嫌と言えなくなるのだ。
一般的に弱者と呼ばれているからには攻撃しづらいし
「嫌になりました、さようなら」と
髪ひるがえして立ち去りにくい。
浮気より老人の方がよっぼどきついと思うのは、この点である。
出口の見えないトンネルの中で苦しんだあげく
恨みや憎しみを超越した崇高な存在になりたがるのは
自然な成り行きといえよう。
最初は安全確保の手段だった料理が、やがて功徳と名を変え
人間でないものに近づくチケットに見え始めた…
それを誰が責められようか。
たった2人でネを上げた私は、功徳なんて思いつきもしなかったぞ。
何もせず、悟りだけひらきたいと願っていた。
高い所から下界を見下ろして「あらあら、大変ねえ」と
言えるようになれたらどんなに楽だろう…
その野心だけだった。
人でないモノに憧れて、結局なれたのは
「人でなし」くらいのもんだ。
「すごいね、よく頑張ったね。
私には無理だわ!」
そう言うと、ヤエさんはハラハラと涙を流し
「報われた」と言った。
でも…とヤエさんは再び顔をくもらせる。
「おばあちゃんの呪いの方は、私の中でどう処理したらいいの?」
そういえば、まだその問題が残ったままであった。
《続く》