火曜日の朝、ママの携帯に電話してみた。
電話に出たママは、挨拶もそこそこに
「ネエさんの言う通りだった!」
を繰り返す。
ママは学校行きを口にしないが、言う通りだったというのは
遅刻の取り消しを断られたことを指すと思われる。
母娘が電話を奪い合いながら、代わる代わる説明するには
警察で事故証明をもらった後、警官が相手の家に連絡を取って
一緒に行ってくれたそうだ。
母親と息子は別人のようにおとなしく
警官の言い渡すことにハイ、ハイと笑顔でうなづいて
保険を使うことに快く同意したという。
あまりの変貌ぶりに驚き、2人はただ呆然と見守るだけだった。
「でも、心配なことが…」
ナミ様は言う。
「あんまりコロッと変わったので、かえって怖くて。
後から遅刻のことで訴えられたら、最悪ですよね…」
「ありえん」
裁判の勝ち負けや、請け負う弁護士がいるいないの問題以前に
着手金や訴状に貼る高額な収入印紙代を払ってまで
訴訟を起こす情熱が、あの親子にあるとは思えない。
私は一笑にふしたが、2人は真剣だ。
「もしそうなったら、イケメンの弁護士を紹介しちゃる」
「イケメン?!」
ナミ様、食いつく。
「任しとき!」
「なんだか…最悪が楽しみになってきました!」
これで暗雲は晴れたと思いきや、甘かった。
「Aさんに申しわけない」
母娘の心配は、そっちへ行っちゃった。
Aさんというのは、相手の車と接触して警察を呼んだ時
ママに付き添った58才の男性だ。
昨年の市長選で、ナミ様や送迎係のママと親しくなっており
立会いを買って出てくれたのである。
「保険を使うまでも無いから、後は話し合いで…」
警察はそう言って帰り、Aさんは
「こういう時だから穏便に…」と言って
ママを謝罪に行かせると相手に約束し
その場を収めたつもりだった。
「穏便じゃなくなったことがAさんに知れたら
気を悪くするのではないか…」
母娘はそう案ずるのだった。
「モメたあげくに保険使いましたって
Aさんの家に手紙が届くわけじゃなし」
私は見当違いを再び一笑にふすが、2人はやはり真剣である。
人はプライドがズタズタになっている時
あらぬ方向へ心配を向けてしまうものだ。
「何かの拍子に耳に入って、Aさんの機嫌を損ねたら
次の市長選で雇ってもらえなくなるかも。
だってAさんは…」
ナミ様は昨年の市長選で誰かから吹き込まれた
Aさんの個人情報を教えてくれる。
「アパレル関係の元社長で、市長の腹心という話です。
権力のある人だから、気を使うんです」
ママも口添えする。
「私のせいでチームの仕事が減ったら
Aさんだけでなく、師匠にも合わせる顔が無いでしょう。
一応、プロとして…ねえ」
“市長選でお声がかからなかった人には、そういう人間関係や
こちらの気遣いなんてわからないでしょうけど…”
そんな口ぶりであった。
アパレル関係の元社長で、市長の腹心というAさん。
しかしその実態は、モンペやジャージのぶら下がる
ひなびた衣料品店を数年前に経営難で閉じ
年金が出るまで選挙の手伝いで細々と食いつなぐ
私の同級生のお兄ちゃんである。
何しろ暇なので、朝から晩まで事務所にピッタリ張り付ける。
寡黙で斜に構えたところが腹心らしく見えないこともないが
彼の家系をかんがみるに、勉学に優れている反面
浮き世のことには疎い血筋。
彼の弟は、同窓会の会費を7年滞納したあげく
昨年の母親の葬式で、会からの香典をせしめた直後に退会した。
その兄であるから、およそ知れている。
虫食い穴がアクセントのチョッキをご愛用の
浮き世離れしたお方だ。
今回の選挙では「市長から回された人材」として
そこそこ尊重されてはいたものの
ウグイスの人選に影響を及ぼすような人物ではない。
見てわからんのか?!と言いたいが
選挙には時として、プロフィールがグレードアップするサービスがあり
「信じるも信じないもあなた次第」という
都市伝説が生まれる場でもある。
そもそも師匠のチームは、3年後も市長に雇ってもらう予定でいるが
肝心の市長は二期目の出馬が危ぶまれている。
親族に関わる公金の問題が浮上しているからだ。
つまり師匠のチームが再度、現市長に雇われる可能性は
彼女達が考えているより少ない。
それを見越して、別の人が出馬の準備中である。
準備といっても、他の立候補者を抑える根回しだ。
草の根で一票から始めるより、ずっと効率が良い。
言い方を変えれば、立候補を準備中の人が
市長の問題を浮上させたとも表現できる。
選挙とは、クロいものなのだ。
ウグイスの打診もあったが、その人はケチで
ギャラが少ないのを知っているため、引き受ける気は無い。
ナンなら師匠のチームを紹介してやってもいい。
現市長がこの難局を乗り越え、再び出馬できるか…
別の人が本当に立候補できるか…
私の注目はこの2つに絞られている。
楽しみで、ウグイスやってるどころじゃない。
だが、この母娘にそんなことは言わない。
善人というのは恐ろしい生き物なのだ。
世の中の人が、みんな自分と同じ善人と思い込んでいるため
よそで何を言うかわからないので滅多なことは言えない。
「同級生のお兄ちゃんだから、もし何かあれば説明してあげるよ」
そう言うと、母娘は安心した様子であった。
で、選挙のほうはどうだったのかって?
二期目のジンクスにのっとって、4年前の初当選より大きく票を落とし
真ん中あたりで当選した。
事務所で開票結果を待つ間、ナミ様母娘と充分な話し合いができたのは
当確が出るのがひどく遅かったからである。
電話に出たママは、挨拶もそこそこに
「ネエさんの言う通りだった!」
を繰り返す。
ママは学校行きを口にしないが、言う通りだったというのは
遅刻の取り消しを断られたことを指すと思われる。
母娘が電話を奪い合いながら、代わる代わる説明するには
警察で事故証明をもらった後、警官が相手の家に連絡を取って
一緒に行ってくれたそうだ。
母親と息子は別人のようにおとなしく
警官の言い渡すことにハイ、ハイと笑顔でうなづいて
保険を使うことに快く同意したという。
あまりの変貌ぶりに驚き、2人はただ呆然と見守るだけだった。
「でも、心配なことが…」
ナミ様は言う。
「あんまりコロッと変わったので、かえって怖くて。
後から遅刻のことで訴えられたら、最悪ですよね…」
「ありえん」
裁判の勝ち負けや、請け負う弁護士がいるいないの問題以前に
着手金や訴状に貼る高額な収入印紙代を払ってまで
訴訟を起こす情熱が、あの親子にあるとは思えない。
私は一笑にふしたが、2人は真剣だ。
「もしそうなったら、イケメンの弁護士を紹介しちゃる」
「イケメン?!」
ナミ様、食いつく。
「任しとき!」
「なんだか…最悪が楽しみになってきました!」
これで暗雲は晴れたと思いきや、甘かった。
「Aさんに申しわけない」
母娘の心配は、そっちへ行っちゃった。
Aさんというのは、相手の車と接触して警察を呼んだ時
ママに付き添った58才の男性だ。
昨年の市長選で、ナミ様や送迎係のママと親しくなっており
立会いを買って出てくれたのである。
「保険を使うまでも無いから、後は話し合いで…」
警察はそう言って帰り、Aさんは
「こういう時だから穏便に…」と言って
ママを謝罪に行かせると相手に約束し
その場を収めたつもりだった。
「穏便じゃなくなったことがAさんに知れたら
気を悪くするのではないか…」
母娘はそう案ずるのだった。
「モメたあげくに保険使いましたって
Aさんの家に手紙が届くわけじゃなし」
私は見当違いを再び一笑にふすが、2人はやはり真剣である。
人はプライドがズタズタになっている時
あらぬ方向へ心配を向けてしまうものだ。
「何かの拍子に耳に入って、Aさんの機嫌を損ねたら
次の市長選で雇ってもらえなくなるかも。
だってAさんは…」
ナミ様は昨年の市長選で誰かから吹き込まれた
Aさんの個人情報を教えてくれる。
「アパレル関係の元社長で、市長の腹心という話です。
権力のある人だから、気を使うんです」
ママも口添えする。
「私のせいでチームの仕事が減ったら
Aさんだけでなく、師匠にも合わせる顔が無いでしょう。
一応、プロとして…ねえ」
“市長選でお声がかからなかった人には、そういう人間関係や
こちらの気遣いなんてわからないでしょうけど…”
そんな口ぶりであった。
アパレル関係の元社長で、市長の腹心というAさん。
しかしその実態は、モンペやジャージのぶら下がる
ひなびた衣料品店を数年前に経営難で閉じ
年金が出るまで選挙の手伝いで細々と食いつなぐ
私の同級生のお兄ちゃんである。
何しろ暇なので、朝から晩まで事務所にピッタリ張り付ける。
寡黙で斜に構えたところが腹心らしく見えないこともないが
彼の家系をかんがみるに、勉学に優れている反面
浮き世のことには疎い血筋。
彼の弟は、同窓会の会費を7年滞納したあげく
昨年の母親の葬式で、会からの香典をせしめた直後に退会した。
その兄であるから、およそ知れている。
虫食い穴がアクセントのチョッキをご愛用の
浮き世離れしたお方だ。
今回の選挙では「市長から回された人材」として
そこそこ尊重されてはいたものの
ウグイスの人選に影響を及ぼすような人物ではない。
見てわからんのか?!と言いたいが
選挙には時として、プロフィールがグレードアップするサービスがあり
「信じるも信じないもあなた次第」という
都市伝説が生まれる場でもある。
そもそも師匠のチームは、3年後も市長に雇ってもらう予定でいるが
肝心の市長は二期目の出馬が危ぶまれている。
親族に関わる公金の問題が浮上しているからだ。
つまり師匠のチームが再度、現市長に雇われる可能性は
彼女達が考えているより少ない。
それを見越して、別の人が出馬の準備中である。
準備といっても、他の立候補者を抑える根回しだ。
草の根で一票から始めるより、ずっと効率が良い。
言い方を変えれば、立候補を準備中の人が
市長の問題を浮上させたとも表現できる。
選挙とは、クロいものなのだ。
ウグイスの打診もあったが、その人はケチで
ギャラが少ないのを知っているため、引き受ける気は無い。
ナンなら師匠のチームを紹介してやってもいい。
現市長がこの難局を乗り越え、再び出馬できるか…
別の人が本当に立候補できるか…
私の注目はこの2つに絞られている。
楽しみで、ウグイスやってるどころじゃない。
だが、この母娘にそんなことは言わない。
善人というのは恐ろしい生き物なのだ。
世の中の人が、みんな自分と同じ善人と思い込んでいるため
よそで何を言うかわからないので滅多なことは言えない。
「同級生のお兄ちゃんだから、もし何かあれば説明してあげるよ」
そう言うと、母娘は安心した様子であった。
で、選挙のほうはどうだったのかって?
二期目のジンクスにのっとって、4年前の初当選より大きく票を落とし
真ん中あたりで当選した。
事務所で開票結果を待つ間、ナミ様母娘と充分な話し合いができたのは
当確が出るのがひどく遅かったからである。