ナミのカッパを腰に巻き、運転を再開した夫。
ジャンパーとトレーナーを失い、薄い半袖シャツだけになったが
運転席の窓を全開にしているので寒そうだ。
匂いを気にしているらしい。
「半袖じゃあ寒いですよ…気にしないで窓を閉めてください」
候補は何度か言った。
選挙カーの窓は全て、朝から晩まで全開が基本。
運転席の窓だけでも閉めて、暖を取ってほしいという候補の配慮だが
夫は閉めなかった。
それが彼にとって、せめてもの誠意であるらしかった。
やがて選挙カーは山奥村に入った。
「キーが無い…」
ここで夫が気づく。
さっきのゲリラ事件からこっち、ずっとエンジンをかけっぱなしだったし
気が動転していたこともあって、キーの所在は眼中に無かったのだ。
「キーが無いと、走れなくない?」
候補は言うが、やはりキーは無い。
キーが無いまま走るなんて、誰も経験したことが無いので
無ければどうなるか、わからないのだった。
「帰りに、さっきの場所を通ってみましょう」
ということで再び現場を訪れ、ジャンパーを探して拾い上げると
ポケットには選挙カーのキーと夫の車のキーが入っていた。
キーから遠く離れても、エンジンさえ切らなければ走行できるらしい。
その後は候補の考えた隠蔽工作に従い、夫は事務所のごく手前で選挙カーを降りた。
急に気分が悪くなって、先に帰ったことにするのだ。
腰にカッパを巻いた不思議な姿で、事務所の人々に会わないためである。
そして選挙カーの車庫入れは、候補が後援会長に依頼。
車内に残留する異臭については
「◯◯牧場へお願いに行ったんですが、足元が暗くてタイヤと靴が汚れました」
と説明した。
これが他の候補だったら、夫はどうなっていただろう。
その場へ置き去りか、話がすぐに広がり、おもらし君なんてあだ名を付けられるかも。
今回、立候補している人たちを思い浮かべてみるが
うちの候補のような対応のできる人物が何人いるだろうか。
この子のために、いっそう頑張ろう…私は改めて誓うのだった。
悪夢のような一夜が明けた。
後で夫から聞いたが、彼は翌朝、ナイロン袋と水を持って
密かに現場へと向かったそうだ。
ヘンゼルとグレーテルの痕跡を掃除し
脱ぎ捨てたジャンパーとトレーナーを回収して廃棄するためである。
前夜は匂いの問題から、衣類を選挙カーで持ち帰るわけにいかなかったのだ。
自主的に行ったところを見ると、かなり反省している模様。
心配していた彼のメンタルだが、何のことはない、ケロリとしたものだ。
そうそう、こういう人だったよな…と思い出す。
しかしギリギリの滑り込みは無くなり、早めに事務所へ来るようになった
「昨夜はご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
事務所に出勤して、候補とナミに謝る。
「忘れる約束ですよ。
大丈夫、誰にもバレていません。
皆さんが帰られた後で、こっそりファブリーズはしましたけど
その時も匂いなんて無かったですよ」
候補は小声で言い、ナミも
「迎えに来てくれた妹にも、誰にもしゃべってません」
と言った。
私はといえば、帰宅するなり義母と息子たちに一部始終を話し
皆で腹を抱えて笑いまくった。
夫に気の毒なことをしたと思いつつ、8時前になったので
心配しながら選挙カーに乗り込んだが、本当に何の匂いも無かったのでホッとした。
ナミのカッパは、かなりいい仕事をしたようだ。
カッパの持ち主はあんまり働かないが、迷惑をかけたので大目に見るしかない。
さて今回の選挙で、私の目玉は何と言っても新人のS氏。
11年前の県議選を覚えておいでだろうか。
それまで市議だった候補が県議選に出馬することになり
市議時代にウグイスをしていた私が引き続き雇われた。
この時の敗北により、候補は政界を引退したため
私は現在の候補のウグイスをすることになったいきさつがある。
それはさておき、その11年前の県議選で
“不登校児童の母の会(仮名)という団体が、選挙事務所を牛耳っていたことは記事にした。
選挙を知らないまま、ネットで調べたうわべの知識をひけらかす非常識な集団で
事務所の中は常にゴタゴタしていた。
私はその団体の会長に消耗夫人、取り巻きには消耗軍団とあだ名を付けて
さんざんこきおろしたものだ。
この消耗夫人と婿養子の夫に、いつも金魚のフンみたいにくっついていた50代後半の独身男…
11年後の今は60代後半になっている…
それが今回、新人として立候補するS氏なのである。
悪い人間ではない。
地元の大企業を早期退職したばかりで暇だったらしく、毎日、選挙事務所へ来ては
消耗軍団の小汚い女どもとおしゃべりに興じていた、ただの役立たずだ。
この時、選挙に関わったことで、男の野心が首をもたげたのだろう。
彼の立候補を聞いた時、私はすぐに思った。
「事務所の仕切りは、消耗夫人率いる消耗軍団。
ドライバーは、あの時の事務局長。
ウグイスは消耗軍団のメンバー、ダミ声の美香子。
魔の県議選、アゲイン…まあ、わたしゃ関係ないけん良かった」
蓋を開けてみると、ドライバーは確かに事務局長だった。
しかしウグイスは、美香子かどうか未確認のまま終わった。
このドライバーは山道や裏道ばっかり走るので、選挙カー同士が滅多に出会わない。
そしてこのドライバーはスピード狂。
たまにすれ違ってもアッという間に走り去り、ウグイスの声までは確認できないのだった。
それから私の予想では、消耗夫人が選挙事務所に詰めているはずだった。
が、事務所の前を通ると、中から出てくるのは彼女ではなく知らない派手なオバちゃん。
手を振りながら飛んだり跳ねたりするので、なかなかの見ものだ。
一緒に出て来る何人かの女性たちも、明るいラテンなムード。
どんよりジメッとした消耗軍団とは、着ている物も雰囲気も真逆だ。
一方で消耗夫人は、いつも家に居る。
選挙カーで彼女の自宅近くを通るたびに、家から出て来て手を振るのだ。
朝昼晩、いつ何どき行っても必ず家に居る。
ということは消耗夫人、事務所に詰めてないということになる。
その事情はうちのドライバー、ヨッちゃんが知っていた。
「Sは、スナック◯◯に出ようる和美とデキたんよ。
事務所は、和美が仕切っとるらしい」
その和美さんは東北出身の50代で、最近まで人妻だったそう。
しかし酒場で、S氏との恋が芽生えた。
S氏は今回の立候補にあたって、不倫では人聞きが悪いという結論に達し
夫婦を別れさせたという話だ。
あの地味なS氏が略奪愛…私は身震いを禁じ得なかった。
それから別れた旦那さんのことを聞いて、二度びっくり。
夫の会社の近くにある鉄工所の次男だった。
どこにでも転がっている話だが、父親の鉄工所を兄弟で引き継ぎ
お決まりの兄弟喧嘩で決裂、というクチ。
やがて次男さんは会社を辞めて新興宗教に走り、東京にある本部で修行に励んでいた。
その修行で東北から来ている女性と出会い、お互いに何回目かの結婚をしたそうで
2〜3年前、夫婦でこちらへ帰って来たのも聞いていた。
その奥さんが、話題の和美さんだったようだ。
《続く》
ジャンパーとトレーナーを失い、薄い半袖シャツだけになったが
運転席の窓を全開にしているので寒そうだ。
匂いを気にしているらしい。
「半袖じゃあ寒いですよ…気にしないで窓を閉めてください」
候補は何度か言った。
選挙カーの窓は全て、朝から晩まで全開が基本。
運転席の窓だけでも閉めて、暖を取ってほしいという候補の配慮だが
夫は閉めなかった。
それが彼にとって、せめてもの誠意であるらしかった。
やがて選挙カーは山奥村に入った。
「キーが無い…」
ここで夫が気づく。
さっきのゲリラ事件からこっち、ずっとエンジンをかけっぱなしだったし
気が動転していたこともあって、キーの所在は眼中に無かったのだ。
「キーが無いと、走れなくない?」
候補は言うが、やはりキーは無い。
キーが無いまま走るなんて、誰も経験したことが無いので
無ければどうなるか、わからないのだった。
「帰りに、さっきの場所を通ってみましょう」
ということで再び現場を訪れ、ジャンパーを探して拾い上げると
ポケットには選挙カーのキーと夫の車のキーが入っていた。
キーから遠く離れても、エンジンさえ切らなければ走行できるらしい。
その後は候補の考えた隠蔽工作に従い、夫は事務所のごく手前で選挙カーを降りた。
急に気分が悪くなって、先に帰ったことにするのだ。
腰にカッパを巻いた不思議な姿で、事務所の人々に会わないためである。
そして選挙カーの車庫入れは、候補が後援会長に依頼。
車内に残留する異臭については
「◯◯牧場へお願いに行ったんですが、足元が暗くてタイヤと靴が汚れました」
と説明した。
これが他の候補だったら、夫はどうなっていただろう。
その場へ置き去りか、話がすぐに広がり、おもらし君なんてあだ名を付けられるかも。
今回、立候補している人たちを思い浮かべてみるが
うちの候補のような対応のできる人物が何人いるだろうか。
この子のために、いっそう頑張ろう…私は改めて誓うのだった。
悪夢のような一夜が明けた。
後で夫から聞いたが、彼は翌朝、ナイロン袋と水を持って
密かに現場へと向かったそうだ。
ヘンゼルとグレーテルの痕跡を掃除し
脱ぎ捨てたジャンパーとトレーナーを回収して廃棄するためである。
前夜は匂いの問題から、衣類を選挙カーで持ち帰るわけにいかなかったのだ。
自主的に行ったところを見ると、かなり反省している模様。
心配していた彼のメンタルだが、何のことはない、ケロリとしたものだ。
そうそう、こういう人だったよな…と思い出す。
しかしギリギリの滑り込みは無くなり、早めに事務所へ来るようになった
「昨夜はご迷惑をかけて、申し訳ありませんでした」
事務所に出勤して、候補とナミに謝る。
「忘れる約束ですよ。
大丈夫、誰にもバレていません。
皆さんが帰られた後で、こっそりファブリーズはしましたけど
その時も匂いなんて無かったですよ」
候補は小声で言い、ナミも
「迎えに来てくれた妹にも、誰にもしゃべってません」
と言った。
私はといえば、帰宅するなり義母と息子たちに一部始終を話し
皆で腹を抱えて笑いまくった。
夫に気の毒なことをしたと思いつつ、8時前になったので
心配しながら選挙カーに乗り込んだが、本当に何の匂いも無かったのでホッとした。
ナミのカッパは、かなりいい仕事をしたようだ。
カッパの持ち主はあんまり働かないが、迷惑をかけたので大目に見るしかない。
さて今回の選挙で、私の目玉は何と言っても新人のS氏。
11年前の県議選を覚えておいでだろうか。
それまで市議だった候補が県議選に出馬することになり
市議時代にウグイスをしていた私が引き続き雇われた。
この時の敗北により、候補は政界を引退したため
私は現在の候補のウグイスをすることになったいきさつがある。
それはさておき、その11年前の県議選で
“不登校児童の母の会(仮名)という団体が、選挙事務所を牛耳っていたことは記事にした。
選挙を知らないまま、ネットで調べたうわべの知識をひけらかす非常識な集団で
事務所の中は常にゴタゴタしていた。
私はその団体の会長に消耗夫人、取り巻きには消耗軍団とあだ名を付けて
さんざんこきおろしたものだ。
この消耗夫人と婿養子の夫に、いつも金魚のフンみたいにくっついていた50代後半の独身男…
11年後の今は60代後半になっている…
それが今回、新人として立候補するS氏なのである。
悪い人間ではない。
地元の大企業を早期退職したばかりで暇だったらしく、毎日、選挙事務所へ来ては
消耗軍団の小汚い女どもとおしゃべりに興じていた、ただの役立たずだ。
この時、選挙に関わったことで、男の野心が首をもたげたのだろう。
彼の立候補を聞いた時、私はすぐに思った。
「事務所の仕切りは、消耗夫人率いる消耗軍団。
ドライバーは、あの時の事務局長。
ウグイスは消耗軍団のメンバー、ダミ声の美香子。
魔の県議選、アゲイン…まあ、わたしゃ関係ないけん良かった」
蓋を開けてみると、ドライバーは確かに事務局長だった。
しかしウグイスは、美香子かどうか未確認のまま終わった。
このドライバーは山道や裏道ばっかり走るので、選挙カー同士が滅多に出会わない。
そしてこのドライバーはスピード狂。
たまにすれ違ってもアッという間に走り去り、ウグイスの声までは確認できないのだった。
それから私の予想では、消耗夫人が選挙事務所に詰めているはずだった。
が、事務所の前を通ると、中から出てくるのは彼女ではなく知らない派手なオバちゃん。
手を振りながら飛んだり跳ねたりするので、なかなかの見ものだ。
一緒に出て来る何人かの女性たちも、明るいラテンなムード。
どんよりジメッとした消耗軍団とは、着ている物も雰囲気も真逆だ。
一方で消耗夫人は、いつも家に居る。
選挙カーで彼女の自宅近くを通るたびに、家から出て来て手を振るのだ。
朝昼晩、いつ何どき行っても必ず家に居る。
ということは消耗夫人、事務所に詰めてないということになる。
その事情はうちのドライバー、ヨッちゃんが知っていた。
「Sは、スナック◯◯に出ようる和美とデキたんよ。
事務所は、和美が仕切っとるらしい」
その和美さんは東北出身の50代で、最近まで人妻だったそう。
しかし酒場で、S氏との恋が芽生えた。
S氏は今回の立候補にあたって、不倫では人聞きが悪いという結論に達し
夫婦を別れさせたという話だ。
あの地味なS氏が略奪愛…私は身震いを禁じ得なかった。
それから別れた旦那さんのことを聞いて、二度びっくり。
夫の会社の近くにある鉄工所の次男だった。
どこにでも転がっている話だが、父親の鉄工所を兄弟で引き継ぎ
お決まりの兄弟喧嘩で決裂、というクチ。
やがて次男さんは会社を辞めて新興宗教に走り、東京にある本部で修行に励んでいた。
その修行で東北から来ている女性と出会い、お互いに何回目かの結婚をしたそうで
2〜3年前、夫婦でこちらへ帰って来たのも聞いていた。
その奥さんが、話題の和美さんだったようだ。
《続く》
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