針と糸、大きいマスク、ファンデーションを持って来るよう
私に指令を出した母は、面会室に現れるとすぐに言った。
「大きいマスク、持って来てくれた?」
「こちらでお預かりしたので、必要な時に出しますね」
看護師が答える。
「マスクは今、いるんよ!」
母は怒りをあらわにして抗議したが
それぐらいで返すようなら、精神病院の看護師は務まらない。
「何で大きいマスクがいるん?」
私が聞いても答えない母。
「ファンデーションは?持って来た?」
早くも話は飛んどるし。
「化粧品はダメなんだって」
「どうして?化粧をせんと外へ出られんが!」
「あんた、外へ出るつもりなんかい?」
「服は?服は持って来てくれた?」
また話、飛んどるし。
その時に服も上下、持って来るように言われていたので
そっちが気になったのだろう。
ここで、やっとわかった。
母は大きなマスクで顔を隠し、私が持って行った洋服に着替えて
病院から脱走するつもりだったのだ。
ファンデーションは、守備よく病院を抜け出したあかつきに
大好きなスーパーへ買い物に行くためである。
針と糸を所望したのは
最初は入院した時の服を着て脱走しようと考えていたからだ。
しかし着る物は、病院の管理下に置かれている。
そこで母は
「ボタンが取れているので、面会に来た者に付けさせる」
という言い訳を考え
ナースステーションから服を持ち出そうとしたのだ。
が、そんな面倒なことをしなくても
別の服を私に持って来させればいいことに気づいた。
よって最初に思いついた針と糸は、忘却の彼方となったと思われる。
私が持って行った針とハサミを見た看護師は
職業上の常識で自◯や自傷を懸念したが
母は間違ってもそんなことをするタマではない。
ナンボ鬱病と診断されていても、それは無い。
人は容赦なく傷つけるが、我が身だけは守り抜く人間だ。
私の目の前には、自分の思い通りにしようと画策する
昔から変わらない母がいるだけである。
子供の頃は彼女の思惑が皆目わからず
うっかり引っかかっては砂を噛んだり煮湯を飲んでいた。
けれどもこっちが結婚して、嫁ぎ先の親と対峙していたら
わかるようになった。
彼らの私に対する扱いは、母のそれと同じだ。
絶対に読み解けない巧妙な罠だと思っていたものは
ワガママな人間の浅知恵に過ぎなかった。
『百婆の洗脳』
さて、帰りたい願望が強いのと、針とハサミ事件によって
個室から出るのが遅れていた母だが
いつの間にか、二人部屋へ移動したようだ。
面会で、相部屋の人の話が出るようになったので知った。
話し相手ができると、何が何でも病院を脱走するという固い意思は
徐々に萎えて行った。
同室のお仲間は、百才のお婆さん。
母が話すには、一人息子が先に亡くなり
嫁と二人暮らしになった途端、この病院へ入れられたそうだ。
自分との二人暮らしを嫌った嫁が、医者とグルになって入院させた…
お婆さんの主張である。
「わたしゃ今のあんたと同じ90才の頃は
まだ自転車に乗ってあちこち行きようた」
「あんたは最初の頃は元気そうじゃったのに
どんどん病人みたいになっていくね」
「医者に、おかしゅうなる薬を飲まされとるんじゃない?」
「実験台なんよ、あんた」
お婆さんは毎日、母にそう言うらしい。
母は、お婆さんの陰謀説に洗脳されて行った。
自分は元気なのに、騙されて精神病院へ入れられた…
このまま薬を盛られ続けたら、本当の病人になってしまう…
だから早く連れて帰って…
脱走という強行手段は諦めたようだが
帰りたい願望は前よりひどくなり、泣きながら電話をかけてくる。
すでに病人なんだけど、元気だと思い込んでいるのが
やっぱり認知症。
そんなある日、いつものように面会に行ったら
先に面会室に入って椅子に座っていた母が
遅れて入った私を白目でにらみつけている。
シロウトが見たら、怖くて足がすくむだろう。
しかしこの目、私にとっては懐かしいもの。
例えば親戚の葬式に、私と一つ下の妹が一緒に行ったら
こういう目をしてにらんでいたものだ。
継子二人のセットを見るのが、ものすごく嫌なのだ。
二人の継子が結束しているように見え、心をかき乱されるらしい。
私が人の態度を気にしないとしたら
それは母が身をもって教えてくれたものである。
ともあれ母は、私に大きな不満があるらしい。
口をへの字に曲げて言った。
「あんた、この病院の支払いはどうなっとるんね」
まるでスケバンだ。
これも昔から慣れているので、何とも思わない。
最初はドスをきかせて別件から入るのも、彼女得意の手である。
「まだ最初の請求が来てないけん、払ってないよ」
「ふ〜ん…
家の中の物はどうなっとる?」
「そのままよ」
「何か持ち出した物は無い?」
「冷蔵庫の食品は持って帰って捨てた」
「ホンマにそれだけじゃろうねぇ」
「…何が言いたいんや、あんた」
母は私の表情から、たじろぎを発見しようと
目をそらさず私を見つめ続ける。
これも懐かしい記憶。
高校生の頃は番茶も出花で、私は色が白くなりつつあった。
母はそんな私を「化粧している」と決めつけ
持ち物検査をしたり、時に白いタオルを持って来て
その場で顔を拭くことを要求した。
化粧をしていたら
ファンデーションが白いタオルに付着するはずだからだ。
母はその時も、私から目をそらさず見つめ続けたものである。
もしも証拠が挙がったら、口をきわめて責める気満々だ。
しかし結果は残念ながら、いつもシロ。
私からタオルを奪い取り、裏も表もシゲシゲと点検後
母はいつも悔しそうに去った。
少ない小遣いで、ファンデーションなんか買えるわけないじゃん。
継子の娘盛りを許せない、継母の心理を知った。
さて、母はいよいよ本題に入った。
「あんたに通帳を預けたのは、間違いじゃったと思うとる」
「何じゃ、それか。
いずれ言うと思よったわ」
「年金が入る大事な通帳じゃけんね!
まさか、使うとりゃすまいね!」
「使うも何も、まだ支払いが無いけん、預かった時のままよ。
返そうか?自分で払う?」
「…祥子にやってもらいたいと思うとる。
あの子は何といっても、私の血を分けた姪じゃけんね」
出た…やっぱり血なんだよね。
《続く》
「女でそんなことしょうる人おらん!ふうがわるい!!」
と母に怒鳴りつけられて
滞在時間30分で実家を引き上げた
修行の足りない私が通りますよ〜っと(笑)
ふうがわるい
言いますよね〜あの年代
このシリーズではじめて
みりこんさんが
テンポよくぽんぽん言い返す技
を使ってらっしゃるのに気づきました。
この技はほかに旦那さん息子さん義母さんすべてに使われてるのでしょうか?
みりこんさんほどの方なら、言葉が湧き出るでしょうし、言っていいいけないの判断も的確だと思います。
私はとっさに言い返せず、溜め込んだ汚水をいきなりひっくり返す派で、それが身体によくないと身にしみてきましたので
今後は私も
撃たれたら即撃ち返す派
になりたいです。
旦那さん、息子さん、義母さん、お友達への「撃ち返し」の使い分けなどありましたらいつかまたご教授ください。
アハハ!笑わせていただきました!
私も使わせていただきますよ〜っと。
フフ…ふうが悪いって、しおやさんの地方でも
言うんですね!
年寄りはよく言いますが、年寄りと接触の多かった私も
言います。
テンポよくポンポン言い返す技
持っておくと便利ですよ。
相手によりますけどね。
母には特に必要で、考える時間を与えてしまったら
難癖をつけたり話が長くなるので
いつも勝負をしている気分です。
これで磨かれたように思います。
撃ち返しの使い分けになっているかどうか
わかりませんが、このシリーズも近いうちに終わるので
次で取り組ませていただきます。
ご提案、ありがとうございます。