公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

奇跡は形而上学的文脈から不可能である

2023-02-11 07:16:00 | 意見スクラップ集
「いかに生き、いかに死ぬべきか 哲学者スピノザの叡智」スティーヴン・ナドラー

スピノザの世界観では世界は単一であり、自然はその単一性に対して忠実である。それゆえに奇跡も偶然もなく、人間の悔い改めに関わりなく必然の存在である。

形而上学的に奇跡が不可能でなければ、デカルトのように安心して方法的懐疑など採用することができないだろう。全く当たり前のことを17世紀に語ることは非常に危険だった。現代が徐々に中世のドグマに脅される世界に変わりつつある。

 
現代に甦る焚書 またもオランダ 17世紀に逆戻り - 公開メモ    DXM 1977  ヒストリエ

現代に甦る焚書 またもオランダ 17世紀に逆戻り - 公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

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17世紀オランダにおける人間の通俗的幸福は今とほとんど変わらない。富と名声権力と肉体的欲望。スピノザの言葉を借りれば、「目を開けたまま見ている夢、錯乱状態」が現代人の幸福に向かう態度だ。つまり変性意識そのものが17世紀からスピノザによって発見されていた。詳しくは洗脳のことだが苫米地の著作を見てほしい。
 
《変性意識を使った洗脳もうひとつ、洗脳側が得意とするのが変性意識を使った洗脳です。変性意識とは現実世界よりも空想の世界にリアリティを持っている状態のことで、わかりやすくいえば、小説に没頭している状態などがそうです。この変性意識を利用するのも CMが得意とする方法》苫米地より
 
 
当然、それらとの縁を捨てて、スピノザが追放身分のままこの錯乱した人々が作る世の中に存在する苦痛に耐えるためには別の平穏な世界が必要だった。その幸福という錯乱病は今のわれわれと変わらない。現代はテレビを見て笑い泣くことが実生活よりリアルである。実生活は極めて虚無的で報酬のための反射運動のようなもの。会社の敷居を跨ぐ最後の最後まで携帯電話を見ている。

つまり逆に心の病の平穏を求める人々の病的なまでの俗世からの隔絶探究行為が17世紀の哲学を生む。
 
現代人であるわれわれはスピノザほど不幸ではない。通俗的幸福を共有する社会から追放こそされていないが、極端な富の偏在と名声権力を独占する貴族GAFAMの登場と、その少数者に対して無名隷属する家畜のような人間の量産化という二極化の中に生きている。あるいはあるものは仮想現実という文字どおり「目を開けたままの夢」に浸っている。
 
 
スピノザの世界観誕生の背景は17世紀よりも今の常識が生まれる背景に近く共通するものがある。それ以上に全地球的に広がっているインターネットという手軽な富と名声の競争対という心の病がある。誰もが自由の本当の姿を求めているが、生まれながらにしてcookieを奪われるマーケティング隷属が決定的な時代である限界に阻まれ、その自由の求めはいつも拒絶される。しかし依存は抜けない。
 
何か絶対的に公平であるもの、例えば16世紀ジャン・カルバンを嚆矢とする神の定めという予定説を心の底に持たなければスピノザの世界の道徳の平穏は成り立たない。

デカルトやスピノザ、ライプニッツの生きた17世紀はペスト死(1665~66年にかけてイギリスで流行、スピノザ33歳の頃)が公平に訪れたのは理不尽も神の定めと受容されたのであった。
 
ところで宮沢賢治の研究者富山英俊氏はスピノザの世界観と宮沢賢治の作品を比較して論じているが、読みつつ、私にも気づくことができたところがある。
「強い気質を持つ人は、誰も憎まず、誰にも怒らず、誰も妬まず、誰にも憤慨せず、誰も嘲らず、そして全く自慢をしない。」これは作品ではない手帳手記の遺稿、賢治の有名な「雨ニモ負ケズ」はスピノザの理想状態の美徳に導く努力、アクラシア(善を知りながら不善をなす)性質への抵抗を言い表しているかのようだ、少なくとも影響を受けているのではないだろうか。わしゃ知らんけど。

アリストテレスの思索の出発点となっているのは「アクラシアはありえない」というソクラテスの無理筋主張への批判である。これは以前話した性善出家と性悪出家に通じ、私はこの対立を利用して前者に帰着する多くの論客を倒してきた。

(Plato,Protagoras.353c ff.)

人間のアクラシア性質は若い頃から私にとって自明だった。生活のためには子供も置いてゆくそういう幼少期環境だったからな。

 
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ※(「「蔭」の「陰のつくり」に代えて「人がしら/髟のへん」、第4水準2-86-78)
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
 
現代はさらに複雑で、スピノザ時代とは違い死さえ公平ではない。
 
エチカ定理72は議論が分かれる。自分自身であるために不道徳は許されるかのようにも受け取ることができるが、逆に至高の美徳は常に自分自身に正直であり続けることと言っている。それ以外の状態は単に努力が足りない。つまり詐欺も方便の嘘も美徳の反対概念である悪徳ではない。ここがわかりにくいが自分が正しく自由であるために他人を犠牲にすることに良心の犠牲はない。畢竟するところ、神は真実の方を見ておられる。と考えたのがスピノザだ。

 スピノザ年譜

バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]1632年11月24日 - 1677年2月21日[1]

  • 1656年7月27日アムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。
  • 1660 - 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand
  • 1661年の夏にライデン近郊のレインスブルフに転居
  • 1662 - 『知性改善論』Tractatus de Intellectus Emendatione
  • 1663年ハーグ近郊のフォールブルフに移住
  • 1663 - 『デカルトの哲学原理』Principia philosophiae cartesianae
  • 1663 - 『形而上学的思想』Cogitata metaphysica
  • 1664年にオランダ共和派の有力者、ヨハン・デ・ウィットと親交を結ぶ
  • 1665年『神学政治論』の執筆を開始
  • 1670年- 『神学・政治論』Tractatus Theologico-Politicus
  • 1672年に友人ウィットが虐殺される
  • 1674年『神学政治論』が禁書となる
  • 1675~1676 - 『国家論』Tractatus Politicus
  • 1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。

    ライプニッツは、スピノザより一回り若い世代、1676年バールーフ・デ・スピノザを訪問した。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。

  • 1677年 - 『エチカ』(『倫理学』)Ethica(Ethica, ordine geometrico demonstrata)
  • 1677 年- 『ヘブライ語文法綱要』Compendium grammatices linguae hebraeae
  • 1677年2月21日、スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓はない。

一方、デカルトは

1628年にオランダに移住1633年ガリレイ地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。 スピノザ1〜2歳

1637年、『方法序説』を公刊する。

1641年、スピノザ8〜9歳、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。ユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。(デカルトただちに「ヴォエティウスに与うる書」 を草して応え、かの文の筆者が実はヴォエティウス自身であると書いた。。。ヴォエティウスはこの点をとらえ、デカルトを誣告罪および無神論をもって告訴した、その結果ユトレヒト市は1643年9月欠席裁判によりデカルトの有罪を宜するに至った。晩年のデカルトより)1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。

1649年情念論』を公刊する。スピノザは16〜17歳

1650年2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。

デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年サン=ジェルマン=デ=プレ教会に移された

【量子力学5】物理量と量子操作①【運動量と波動関数】|kT@物理・化学

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