スピノザの世界観では世界は単一であり、自然はその単一性に対して忠実である。それゆえに奇跡も偶然もなく、人間の悔い改めに関わりなく必然の存在である。
形而上学的に奇跡が不可能でなければ、デカルトのように安心して方法的懐疑など採用することができないだろう。全く当たり前のことを17世紀に語ることは非常に危険だった。現代が徐々に中世のドグマに脅される世界に変わりつつある。
アリストテレスの思索の出発点となっているのは「アクラシアはありえない」というソクラテスの無理筋主張への批判である。これは以前話した性善出家と性悪出家に通じ、私はこの対立を利用して前者に帰着する多くの論客を倒してきた。
(Plato,Protagoras.353c ff.)
人間のアクラシア性質は若い頃から私にとって自明だった。生活のためには子供も置いてゆくそういう幼少期環境だったからな。
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノノ
小サナ萓ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ朿ヲ[#「朿ヲ」はママ]負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒドリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無無辺行菩薩
南無上行菩薩
南無多宝如来
南無妙法蓮華経
南無釈迦牟尼仏
南無浄行菩薩
南無安立行菩薩
スピノザ年譜
バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza [baːˈrux spɪˈnoːzaː]、1632年11月24日 - 1677年2月21日[1])
- 1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレム(破門・追放)にされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。
- 1660 - 『神・人間及び人間の幸福に関する短論文』Korte Verhandeling van God, de mensch en deszelvs welstand
- 1661年の夏にライデン近郊のレインスブルフに転居
- 1662 - 『知性改善論』Tractatus de Intellectus Emendatione
- 1663年、ハーグ近郊のフォールブルフに移住
- 1663 - 『デカルトの哲学原理』Principia philosophiae cartesianae
- 1663 - 『形而上学的思想』Cogitata metaphysica
- 1664年にオランダ共和派の有力者、ヨハン・デ・ウィットと親交を結ぶ
- 1665年『神学政治論』の執筆を開始
- 1670年- 『神学・政治論』Tractatus Theologico-Politicus
- 1672年に友人ウィットが虐殺される
- 1674年『神学政治論』が禁書となる
- 1675~1676 - 『国家論』Tractatus Politicus
- 1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。
ライプニッツは、スピノザより一回り若い世代、1676年にバールーフ・デ・スピノザを訪問した。そこでライプニッツは『エチカ』の草稿を提示された。だが、政治的問題もあり、またそれ以上に実体観念や世界観(特に「必然性」や「偶然性」といった様相をめぐる議論)の違いからスピノザ哲学を評価しなかったと言われる。
- 1677年 - 『エチカ』(『倫理学』)Ethica(Ethica, ordine geometrico demonstrata)
- 1677 年- 『ヘブライ語文法綱要』Compendium grammatices linguae hebraeae
- 1677年2月21日、スヘーフェニンヘン(ハーグ近く)で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓はない。
一方、デカルトは
1628年にオランダに移住1633年にガリレイが地動説を唱えたのに対して、ローマの異端審問所が審問、そして地動説の破棄を求めた事件が起こる。これを知ったデカルトは、『世界論』の公刊を断念した。 スピノザ1〜2歳
1641年、スピノザ8〜9歳、デカルト45歳のとき、パリで『省察』を公刊する。ユトレヒト大学の神学教授ヴォエティウスによって「無神論を広める思想家」として非難を受け始める。(デカルトただちに「ヴォエティウスに与うる書」 を草して応え、かの文の筆者が実はヴォエティウス自身であると書いた。。。ヴォエティウスはこの点をとらえ、デカルトを誣告罪および無神論をもって告訴した、その結果ユトレヒト市は1643年9月欠席裁判によりデカルトの有罪を宜するに至った。晩年のデカルトより)1643年5月、プファルツ公女エリーザベト(プファルツ選帝侯フリードリヒ5世の長女)との書簡のやりとりを始め、これはデカルトの死まで続く。エリーザベトの指摘により、心身問題についてデカルトは興味を持ち始める。1644年、『哲学原理』を公刊する。エリーザベトへの献辞がつけられる。1645年6月、ヴォエティウスとデカルトの争いを沈静化させるために、ユトレヒト市はデカルト哲学に関する出版・論議を一切禁じる。
1650年2月にデカルトは風邪をこじらせて肺炎を併発し、死去した。
デカルトの遺体はスウェーデンで埋葬されたが、1666年にフランスのパリ市内のサント=ジュヌヴィエーヴ修道院に移され、その後、フランス革命の動乱を経て、1792年にサン=ジェルマン=デ=プレ教会に移された