大川原有重 春夏秋冬

人は泣きながら生まれ幸せになる為に人間関係の修行をする。様々な思い出、経験、感動をスーツケースに入れ旅立つんだね

『建築家 白井晟一 精神と空間』オープニングレセプション

2010-09-10 18:56:00 | 美術

群馬県立近代美術館 [企画展] 建築家 白井晟一 精神と空間


今日、建築家 白井晟一のオープニングレセプションに出席してきました。展覧会場には数多くの白井晟一の設計図と建築した建物の写真、及び余技として続けていた書が展示されており、彼の生涯にわたる仕事が俯瞰できるように展示構成されていて、とても楽しむことができました。白井晟一さんの建築については、東京では渋谷にある松濤美術館や、秋田にある稲住温泉くらいしか知りません。稲住温泉には、十数年前に西馬音内の盆踊りを観るために宿泊した記憶があります。とても懐かしい思い出です。展覧会場で一番驚いたのは、幻の『原爆堂』のデッサンと数枚の図面の部屋です。思わずゾッとするような気配を感じる空間でした。『原爆堂』に関しては、白井昱磨氏が展覧会図録のなかで、「核の時代を生きる人間の存在そのものに内包される悲劇性であるという自覚を通して、その悲劇を乗り越える力をつかみとろうとする一人の建築家の挑戦であった」と述べています。雪国秋田での建築家としての苦闘から『未完の原爆堂』へと文明の悲劇に建築のテーマを変えていく経緯については、展覧会図録に詳しく述べらているので、関心のある方はぜひお読みください。とても有意義で示唆に富む内容です。年譜によると、彼は1928年(昭和3年)23歳の時に渡欧し、カール・ヤスパースのゼミに通い、哲学を学んでいたそうですが、僕の想像では、ヒューマニズムとマルクス主義の合一と融合を心の中で希求していたように思えます。1928年から33年までヨーロッパに滞在し、帰国後すぐに東京山谷の労働者街で孤児を集めて世話をしながら2ヶ月ほど暮らしたことにも、彼の理想世界の実現を垣間みることができそうです。とても興味深い行為だと思います。その後の彼の生き方については、どうぞ展覧会をご覧ください。

話は変わりますが、車でよく高速の関越道に向うとき、白井晟一さんが住んでいた虚白庵を車窓からちらっと眺めていたのですが、今年の4月に解体されたそうです。
「この日本経済システムの斧柯(ふか)をもって、無意識に執行された、野蛮極まりない暴虐は、闇の色彩を無惨な更地に換えた」(谷内克聡 学芸員)
この展覧会は白井晟一という人が、日本の闇のなかに光を求め続けた誠実な軌跡と痕跡を辿ることができる絶好の機会になるような気がします。
☆☆☆


図録表紙
視覚的にも充実した展覧会図録でとても楽しめる構成になっています。