いかなる事においてもそうなのであって、
私が私自身のために欲望しない場合は、
神が私に代わって欲望して下さるのである。
(『神の慰めの書』マイスター・エックハルト著
講談社学術文庫 )
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上記に引用した箇所「私が私自身のために欲望しない場合は神が私に代わって欲望してくださる」は、フツーのクリスチャンのわたしの経験では「お祈りしているとき」のことである。
つまりすべて「お祈り」というものは、主の主王の王主イエス・キリストより与えられるものである。この時主はオートマチックにわたしに「お祈りさせる」のではない。わたしの心と魂と体のすべて、つまり「わたしの個性のすべて」を使ってお祈りをさせてくださる。だから「わたし自身のお祈り」とも言える。
「わたしの自由な意思で行うわたしの祈り」である。
このように、いわゆる「無私」の状態になれるのは人間にとっては「お祈りしているとき」以外、まったくと言っていいほどにないのである。したがって主の愛つまり無償の愛とは、普段の日常の祈りによって主の主王の王主イエス・キリストより与えられる尊いお恵みであり、フツーのクリスチャンにとっては、このような自分でも主に似た者に少しでも近づけていただける至福の時である。
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私が私自身のために欲望しない場合は、
神が私に代わって欲望して下さるのである。
(『神の慰めの書』マイスター・エックハルト著
講談社学術文庫 )
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上記に引用した箇所「私が私自身のために欲望しない場合は神が私に代わって欲望してくださる」は、フツーのクリスチャンのわたしの経験では「お祈りしているとき」のことである。
つまりすべて「お祈り」というものは、主の主王の王主イエス・キリストより与えられるものである。この時主はオートマチックにわたしに「お祈りさせる」のではない。わたしの心と魂と体のすべて、つまり「わたしの個性のすべて」を使ってお祈りをさせてくださる。だから「わたし自身のお祈り」とも言える。
「わたしの自由な意思で行うわたしの祈り」である。
このように、いわゆる「無私」の状態になれるのは人間にとっては「お祈りしているとき」以外、まったくと言っていいほどにないのである。したがって主の愛つまり無償の愛とは、普段の日常の祈りによって主の主王の王主イエス・キリストより与えられる尊いお恵みであり、フツーのクリスチャンにとっては、このような自分でも主に似た者に少しでも近づけていただける至福の時である。
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