そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に
正しいと見えることを行なっていた。
(士師記 第17章 6節 )
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上記引用聖句の「王がなく」ということは、この世的な王がいない
ということだけでなく、全宇宙を統べ治めたもう王・主なる神を
ないがしろにして偶像にはしっていたことを物語っている。
いくら何度も何度も偶像はいけないととりあげてもすぐに偶像に
はしってしまう人間の罪の深さ弱さがある。
それで主なる神は御ひとり子をその罰の身代わりとして十字架につけて
渡した。そして三日後に復活させこの御方を全き神全き人間として信じる
者には復活のいのちとこしえのいのちを与えた。
いわば真の神の子となる特権を与えたのである。
それで現代に至っているが、相も変らず民は偶像崇拝をやめない。
悔い改めてやめるものもなかにはいる。
救われるものもいるのである。
この御方の十字架と復活のおかげで。
みんなこの御方が全き神全き人間であることを魂の奥から信じよう。
そして真に神の子にしていただこう。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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