あなたの父と母を敬え。
「出エジプト記 第20章 12節」
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしには幸いなことに、わたしを生んだと言ってくれる母とわたしを生んだと言ってくれた父が存在する。父は他界して現在はいないが母は存命である。
わたしは正直に告白すると、この有名な「十戒」のひとつである上記の戒律だけはどうしても守れなくて悩んできた。
お祈りする時は必ず今生きている生みの母を愛せますようにとお願いしている。切実に祈っている。日に何度もそのお祈りの必要を感じている。
「敬え」というのは「尊敬」しろということとイコールではないのかもしれない。最近そんな風に感じる。それは主イエス・キリストに「生みの母を愛せますように」とお祈りした結果与えられた”気づき”である。
「愛する」ことは必ずしも「好きだ」という気持ちを伴わない。「大嫌い」でも「愛する」ことは出来る。そう思うようになった。
つまり「大嫌い」な母親にも自分と同じ「人間を見る」ことができるようになりつつあるのだ。主イエス・キリストの言葉として有名な「あなたの敵を愛しなさい」の意味するところに似ている。
母はわたしよりもずっと弱い立場にいる人間だ。
心臓にペースメーカーを入れている。一級の障ガイ者である。もし、自分がペースメーカーを入れることになったらどうか、「大嫌い」でも同じ人間として苦しさを想像することは出来る。ペースメーカーを入れる手術は比較的簡単だと言われているが、メスでざっくり切ればわたしと同じ人間の血が流れるのだ。痛い、苦しい、こんなものを入れなくてはならない病気は嫌だ。精神的にいつも不安だろうと思う。いつペースメーカーが不都合な状態になるか分からない。
「あなたの父と母を敬え」は、「あなたの父と母を、自分を愛するように愛せよ」ということと同じだと思う。父や母の中に自分と同じ「人間」を見て、出来る限り理解することだ。
わたしにとって相手を理解することは愛することと同じである。そしていくら「大嫌い」でも自分の生みの母を出来得る限り「理解する」ことを今日も主イエス・キリストに祈り求めている。
minasamano heiannwo oinorimousiagemasu.
「出エジプト記 第20章 12節」
☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★ ☆★☆★
わたしには幸いなことに、わたしを生んだと言ってくれる母とわたしを生んだと言ってくれた父が存在する。父は他界して現在はいないが母は存命である。
わたしは正直に告白すると、この有名な「十戒」のひとつである上記の戒律だけはどうしても守れなくて悩んできた。
お祈りする時は必ず今生きている生みの母を愛せますようにとお願いしている。切実に祈っている。日に何度もそのお祈りの必要を感じている。
「敬え」というのは「尊敬」しろということとイコールではないのかもしれない。最近そんな風に感じる。それは主イエス・キリストに「生みの母を愛せますように」とお祈りした結果与えられた”気づき”である。
「愛する」ことは必ずしも「好きだ」という気持ちを伴わない。「大嫌い」でも「愛する」ことは出来る。そう思うようになった。
つまり「大嫌い」な母親にも自分と同じ「人間を見る」ことができるようになりつつあるのだ。主イエス・キリストの言葉として有名な「あなたの敵を愛しなさい」の意味するところに似ている。
母はわたしよりもずっと弱い立場にいる人間だ。
心臓にペースメーカーを入れている。一級の障ガイ者である。もし、自分がペースメーカーを入れることになったらどうか、「大嫌い」でも同じ人間として苦しさを想像することは出来る。ペースメーカーを入れる手術は比較的簡単だと言われているが、メスでざっくり切ればわたしと同じ人間の血が流れるのだ。痛い、苦しい、こんなものを入れなくてはならない病気は嫌だ。精神的にいつも不安だろうと思う。いつペースメーカーが不都合な状態になるか分からない。
「あなたの父と母を敬え」は、「あなたの父と母を、自分を愛するように愛せよ」ということと同じだと思う。父や母の中に自分と同じ「人間」を見て、出来る限り理解することだ。
わたしにとって相手を理解することは愛することと同じである。そしていくら「大嫌い」でも自分の生みの母を出来得る限り「理解する」ことを今日も主イエス・キリストに祈り求めている。
minasamano heiannwo oinorimousiagemasu.