ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

キリストにある者。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2021年09月18日 00時05分54秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    だれでもキリストにあるならば、その人は
    新しく造られた者である。

       (コリント人への第二の手紙第5章17節 )

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 わたしたちフツーのクリスチャンはよく「主イエス・キリストにある夫婦」「主にある兄弟姉妹」などという他者に対する言い方をする。
 上記の「だれでもキリストにあるならば」とは一体どのようなことだろう。
 それは何度もわたし自身の自戒をこめて書かせていただいていることだが、「自分のうちに主の主王の王主イエス・キリストが住んでいてくださっているという自覚がある」ということだ。ただ単に「わたしは信仰があります」式のオートマチックな言い方ではすまされない。
 「実体験として自分の内には主が住んでおられる」ことを感じている状態のことをいう。この「自覚」を主よりいただくには数知れない方法があるだろう。しかしあくまで「主よりお恵み」していただくものである。いわゆる○×修行をしたから自覚がもてたのだなどということはフツーのクリスチャンにはあり得ないとわたしは確信している。わたし自身○×式の修行で「自力」で「主よりのお恵み」をいただけると思いこんだこともあった。しかし「聖書」特に「福音書」を熱心に読みお祈りしているうちに「新しく創造された」主イエス・キリストの御力によって、わたしの誤謬は取り除かれたのだ。

 「主にある兄弟」「主イエス・キリストにある夫婦」は、自分のうちに主に住んでいただいている自覚と、相手のうちにも主が住んでおられるという認識を共有する者たちである。その人たちは「新しく造られた者たち」なのだと言えるだろう。
 主に感謝。


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      ↓:感謝。
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