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それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、
「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから」と言った。
そこで、彼は起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、
四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着いた。
(列王記第一第19章 7・8節 )
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信仰をいただき、神のつとめ(聖書を読んだり、祈ったり、
ディボーションをしたりetc.)ができるところなら、たとえ
どんなところでもそこは「神の山ホレブ」である。
エリヤのように主への信仰のために時の権力に迫害されたり
神の山ホレブで神のつとめをするより大変なこともある。
落ち着いて神のつとめをすることがどんなに大変なことかよくわかる。
しかし、信仰をしっかりもっていれば、どんなことでも「神のつとめ」
なのである。
迫害されることすらである。
いつも神の山ホレブにいようではないか。
もちろん神ご自身と共に。
主に栄光がとこしえにありますように。
主イエス・キリストの御名によって。
アーメン。
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