「この者たちはユダヤ人でありまして、私たちの町をかき乱し、
ローマ人である私たちが、採用も実行もしてはならない風習を
宣伝しております」
(使徒行伝第16章 20・21節 )
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わたしの住んでいる国でもクリスチャンはバプテスマを受けていることを
むやみに他者に言ってはならない、たとえ電車の中でも聖書のことやキリスト教に
関係した話をしてはならないとわたしは母親に注意されたが、だいたいみんな
そうらしい。「信教思想の自由」のかけらもない。
「信教思想の自由」から他のあらゆる「自由」が生まれるのではないだろうか。
「信教思想の自由」こそ「自由」というものの根源であると思う。
この21世紀の世の中でキリスト教の話を公衆の面前でしてはならないというのは
まさに上記引用聖句で2千年前パウロとシラスを訴え捕まえて獄舎に入れたのと
同じである。
いったいわたしの住んでいる国は何年キリスト教を迫害したら気が済むのだろう。
初めて宣教されてからわたしの知っているかぎり400年もたっているのである。
世界にはもっと大変な「反信教思想の自由」もあるが、わたしの住んでいる国の
やっていることはほんとうに子供たちの中にはやっているイジメに近い。
それもいい年をした大人がやっているのだから始末が悪い。
わたしたちはゆるされているものは全部使って主ご自身のことを宣教してゆくつもり
である。
父と子と聖霊の御名によって。アーメン。
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