ポエムな言の葉パラダイス

少女ジーザスが詩を書いています。少女ジーザスが本を読んでいます。
みなさんに是非伝えたい言葉があります。

法の精神。主イエス・キリストの御名によって。アーメン。(新約聖書)

2021年01月01日 00時01分00秒 | 少女ジーザスの言の葉ランド
    「わたしたちの律法によれば、まずその人の言い分を聞き、
     その人のしたことを知った上でなければ、さばくことを
     しないのではないか」。
  
      (ヨハネによる福音書第7章51節 )


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 私見でおこがましいが、聖書の、特に新約聖書の福音書の中に散見される「法の精神」の一句である。
 『法の精神』(仏のモンテスキュー)という古典的名著をわたしは読んだことがないのだが、福音書を読むとごく自然に「法の精神」に導かれる。浅学非才のフツーのクリスチャンのわたしにとってこれはあまりに難しい学問体系である。
 しかし、上記の聖句をよく味わってみると「法律」というもので「人間」を「裁く」ということの難しさが分かる。難しくもありオソロシイことでもある。(法律と律法は厳密に言うと違うのだが)。
 神ではない「人間」が「法律」を武器にして他者を裁くのである。
 わたしはフツーのクリスチャンとしてやはり「法律」もわたしの信じる主イエス・キリストの思想を抜きにして考えることはできない。手前勝手でオコガマシイが、「法律」もまた主イエス・キリストがわたしたちに与えたものだと考えている。法律にも悪法がある。それは是正されねばならない。主のみこころを聞き誤って制定してしまったものが「悪法」なのだ。
 わたしの祈りは主イエス・キリストの目をいただくこと、主イエス・キリストの耳をいただくこと、主イエス・キリストの口をいただくこと、そのために祈る祈りである。
 アメリカ合衆国の国家公務員の誓いの儀式がある。
 右手(神のきき腕)を聖書の上において、「神と人とに仕えることを誓います。アーメン」と誓う。主イエス・キリストの御前で誓うのだ。これは裁判官でも同じである。神を忘れた法律や裁きはあってはならない。



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