☆ 7/23(日)10:30~ 日比谷図書文化館
第7回「日の丸・君が代」問題等全国学習・交流集会
記念講演:高島伸欣 「蘇る『教育勅語体制』と『日の丸・君が代』強制を迎え撃つ」
◆ 「五輪で「国旗・国歌を学ぼう」だなんて、血迷うな!
皆さま 高嶋伸欣です
今日20日の『朝日新聞』東京本社版の夕刊社会面に、写真入りで「五輪来るよ 国旗・国歌学ぼう」「世界の多様性知るきっかけに 中学へ出前授業」と題した記事が掲載されました。
都教委による2020年東京五輪を口実にした「愛国心」育成、「教育勅語体制」再現教育への問題提起や、学校現場への「日の丸・君が代」強制で東京都の学校がどれほど活気を失い、教職員がいかに苦しめられているかという現実を全く視野に置いていない、能天気な「日本会議」の宣伝さながらの記事であるように、私には読めます。
何しろこの出前授業の講師の吹浦忠正氏は「日本会議」寄りの人物なのですから。
それに致命的なのは、「五輪」では「国旗・国歌」ではなく各「選手団の旗・歌(曲)」であるというIOC憲章に違反の授業であることに全く言及していないことです。
憲章違反に多くの人が気づいていないのをいいことにして、五輪を愛国心教育に利用すると意図して、「五輪」では「国旗・国歌」なのだという誤った認識を増幅させたいと願っている都教委は、この記事を神棚に飾りたいくらいの拍手喝さいの思いでしょう。
私たちが過去30年もの間言い続けてきた「五輪の旗・曲は国旗・国歌ではない」という取り組みをが、この記事でどれほどぶち壊されてしまったか、図り知れない。
森喜朗東京五輪組織委員会会長が、リオ五輪への日本選手団壮行会で「国歌を歌えないような選手は日本代表ではない」と発言して、物議を醸したのは1年前のことです。
その時、『朝日』はどうしていたのか? 『東京新聞』は「こちら特報部」の紙面で、手厳しくIOC憲章違反発言であると指摘しています(16年7月5日)。『朝日』は問題意識まるでなしの体に見えた結果がこの始末なのでしょう。
思い起こせば、この30年来五輪やアジア大会の夏冬の大会のたびに、組織委員会や主要マスコミに、IOC憲章通りの「旗・曲」の扱いを申し入れ続け、一過性でしかなかったものの、それなりの反応は得られていました。
特に徹底してIOC憲章通りの報道や学校教育を実行していたのは広島でのアジア大会の時でした(1994年)。
さらに96年7月のアトランタ五輪では、『朝日』7月20日朝刊の第一社会面を埋めた開会式の記事が、徹底して「国旗」ではなく「国・地域オリンピック委員会(NOC)の旗」として、個々の事例を紹介するものとなっていて、目を見張ったものでした。
後日、『朝日』の関係者にそのことを語ったら、「あの時の紙面の責任者(デスク)は私だった。手元にあなた方からの要望書があって、国旗・国歌とする現地記者たちからの記事を、私が必至で修正したのだ」と言われ、要望書が生きたことを知りました。
だがその時の「デスク」だった記者は今、社内で煙たがられ、左遷されて全国版紙面でその人の記事を読むことはほとんどありません。
アトランタ大会の記事から20年、今日の夕刊記事で『朝日』の時代逆行ぶりを思い知らされました。記者だけでなくデスクや校閲係は役割を果たしているとは思えません。これでは『産経』と大差ないし、『産経』の方が実はIOC憲章を十分に承知した上で巧妙に歪曲、洗脳報道をしているようにも思えることもあります。どっちが上手とみるべきでしょうか?
日本の社会の活気の喪失は、安倍政権のせいばかりではないということでしょうか。それとも『朝日』は都教委に何か弱みを握られている?
これまでの取り組みは何だったのだろうか、と徒労感に今襲われています。
元気が出てきたら、『朝日』に意見を言おうかとも思いますが、かも?
「浜の真砂とナントカ」と言いますから(「12月8日の開戦は真珠湾から」の俗説是正についても同様だと、昨年末の安倍首相の真珠湾訪問時の報道で思い知らされたばかりでした)。
『風とともに去りぬ』ではありませんが、ともかく今は寝付けるように努力して、あとは明日以後に考えることにします。
第7回「日の丸・君が代」問題等全国学習・交流集会
記念講演:高島伸欣 「蘇る『教育勅語体制』と『日の丸・君が代』強制を迎え撃つ」
◆ 「五輪で「国旗・国歌を学ぼう」だなんて、血迷うな!
皆さま 高嶋伸欣です
今日20日の『朝日新聞』東京本社版の夕刊社会面に、写真入りで「五輪来るよ 国旗・国歌学ぼう」「世界の多様性知るきっかけに 中学へ出前授業」と題した記事が掲載されました。
都教委による2020年東京五輪を口実にした「愛国心」育成、「教育勅語体制」再現教育への問題提起や、学校現場への「日の丸・君が代」強制で東京都の学校がどれほど活気を失い、教職員がいかに苦しめられているかという現実を全く視野に置いていない、能天気な「日本会議」の宣伝さながらの記事であるように、私には読めます。
何しろこの出前授業の講師の吹浦忠正氏は「日本会議」寄りの人物なのですから。
それに致命的なのは、「五輪」では「国旗・国歌」ではなく各「選手団の旗・歌(曲)」であるというIOC憲章に違反の授業であることに全く言及していないことです。
憲章違反に多くの人が気づいていないのをいいことにして、五輪を愛国心教育に利用すると意図して、「五輪」では「国旗・国歌」なのだという誤った認識を増幅させたいと願っている都教委は、この記事を神棚に飾りたいくらいの拍手喝さいの思いでしょう。
私たちが過去30年もの間言い続けてきた「五輪の旗・曲は国旗・国歌ではない」という取り組みをが、この記事でどれほどぶち壊されてしまったか、図り知れない。
森喜朗東京五輪組織委員会会長が、リオ五輪への日本選手団壮行会で「国歌を歌えないような選手は日本代表ではない」と発言して、物議を醸したのは1年前のことです。
その時、『朝日』はどうしていたのか? 『東京新聞』は「こちら特報部」の紙面で、手厳しくIOC憲章違反発言であると指摘しています(16年7月5日)。『朝日』は問題意識まるでなしの体に見えた結果がこの始末なのでしょう。
思い起こせば、この30年来五輪やアジア大会の夏冬の大会のたびに、組織委員会や主要マスコミに、IOC憲章通りの「旗・曲」の扱いを申し入れ続け、一過性でしかなかったものの、それなりの反応は得られていました。
特に徹底してIOC憲章通りの報道や学校教育を実行していたのは広島でのアジア大会の時でした(1994年)。
さらに96年7月のアトランタ五輪では、『朝日』7月20日朝刊の第一社会面を埋めた開会式の記事が、徹底して「国旗」ではなく「国・地域オリンピック委員会(NOC)の旗」として、個々の事例を紹介するものとなっていて、目を見張ったものでした。
後日、『朝日』の関係者にそのことを語ったら、「あの時の紙面の責任者(デスク)は私だった。手元にあなた方からの要望書があって、国旗・国歌とする現地記者たちからの記事を、私が必至で修正したのだ」と言われ、要望書が生きたことを知りました。
だがその時の「デスク」だった記者は今、社内で煙たがられ、左遷されて全国版紙面でその人の記事を読むことはほとんどありません。
アトランタ大会の記事から20年、今日の夕刊記事で『朝日』の時代逆行ぶりを思い知らされました。記者だけでなくデスクや校閲係は役割を果たしているとは思えません。これでは『産経』と大差ないし、『産経』の方が実はIOC憲章を十分に承知した上で巧妙に歪曲、洗脳報道をしているようにも思えることもあります。どっちが上手とみるべきでしょうか?
日本の社会の活気の喪失は、安倍政権のせいばかりではないということでしょうか。それとも『朝日』は都教委に何か弱みを握られている?
これまでの取り組みは何だったのだろうか、と徒労感に今襲われています。
元気が出てきたら、『朝日』に意見を言おうかとも思いますが、かも?
「浜の真砂とナントカ」と言いますから(「12月8日の開戦は真珠湾から」の俗説是正についても同様だと、昨年末の安倍首相の真珠湾訪問時の報道で思い知らされたばかりでした)。
『風とともに去りぬ』ではありませんが、ともかく今は寝付けるように努力して、あとは明日以後に考えることにします。
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