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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

★ 教育勅語の「爾臣民」は「民主主義の歴史」を全面否定する語

2024年02月27日 | 暴走する都教委と闘う仲間たち

 ★ <話題提起>広島(あるいは全国)の人びとの”自尊心”は何処に?
   皆さま     髙嶋伸欣です

 10日間ほどの東南アジアツアーから帰国したところです。
 取り急ぎ、国内のこの間の様々な動きを確かめています。その中で、12月11日に発覚した広島の松井市長による教育勅語引用の職員研修講話の問題に関し、以前から気がかりであった点が解消されていないことを認識させられました。
 それは、言いにくいことですが、”良識派”と一般には見られている市民運動等に関わっている皆さん方にも関わる疑問です。このメールはその疑問点について話題提起をすることにしたものです。
 以下、時間のある時にお読みいただき、意見・感想等を寄せて頂ければ幸いです。

 結論を先に示しておきます。
 問題視しているのは、私たち様々な市民運動で声を挙げている側にも、「爾(なんじ)臣民」という語を「生きていく上での心の持ち方(心構え)」であるとする権力者・広島市長の主張の不当性を直視する声が、この間見当たらないことです。
 「兄弟友に 博愛~」などの徳目の引用は問題だとしても、「爾臣民」を問題だとはしていないのです。
 14日に公表された広島弁護士会長声明に於いても、同様だと分かりました。

 このことからすると、こと松井講話問題に関心を持つ法律家、研究者・学者、ジャーナリスト、労働組合員、教職員組合そして各種平和運動などの市民運動家のいずれにおいても、「爾臣民」という語は「兄弟友に 博愛~」等の徳目とは別格で、市民革命以後の民主主義の歴史を全面否定する語であるとの重大性を認識されていないように、私には思えます。

 歴史的な意味などについて詳しくなくとも、民主義社会を支え守るのは、主権者個々が主権在民の理念を確固たるものとしていかなる場合も維持し、主権者としての存在を脅かされた時にはすかさず声を挙げ、自由と権利を守る行動をすることだと、私は考えています。
 私は、戦後の社会科でそのように学び、教員として生徒・学生にもその考えを伝えてきました。また、自身も教科書裁判などで主権者としての声を挙げ、多くの人に支えられたことで、この理念は定着していると思っていました。

 ところが、松井市長講話問題が発覚し、全国にも報道された後の報道や各種の批判・抗議の内容においては、「兄弟友に 博愛~」等の徳目について問題視したり、教育勅語全体が法的に失効していることを指摘するものばかりです。
 それらは、福田赳夫首相や森喜朗首相などが「教育勅語にも今の時代に当てはまる内容がある。全面否定は行き過ぎだった」旨の発言をしたこれまでの前例が発覚した時に提起された批判・抗議とほぼ同じです。

 一方で、今回の松井講話では、福田・森両首相でさえも「今の時代に当てはまる」とはしなかった「爾臣民」を、職員への”心構え”の筆頭部分として引用しているのです。
 「爾臣民と心得よ」と松井市長は12年もの間、新採用職員や新任課長職員たちに公然と言い聞かせてきたことを、市長自身が認めています。この間、職員の中から異議の声を挙げた者は一人もいなかった、と市長が記者会見で語っています。

 松井講話で「爾臣民」の語が引用されていることと、12年間聴講させられていた市職員の中から「私はあなたの部下であっても、あなたの家臣・下僕ではありません」等の声を挙げる者が一人もいなかった、ということに私は驚きました。

 そのことから、私は広島市役所職員の間には自尊心についての自負の念が薄弱なのだと、受け止めていました。ところが、その後の報道や批判・抗議の動きにおいても、「爾臣民」の引用について問題視する姿勢が皆無であるのに気付き、ことは広島市役所内だけの問題ではないのだと気づかされました。

 『朝日新聞』は社説で扱う程、松井講話の批判に積極的でしたが、「爾臣民」について特に問題視するものではありませんでした。
 こうした無関心の状況は、この事案が全国に報道された後も同様であるので、ことは広島だけではないのだと、私は考えるようになりました。

 それでも同時に「どこかから、法律学者、歴史家、教育学者などの誰かが指摘するのではないか」と期待していました。
 その期待が空しかったことを、帰国してから見た「広島弁護士会長声明」によって確認させられ、このメールを幾つかのMLに発信することにした次第です。

 私には、「爾臣民」引用という初めての事例について無関心な社会状況は、社会全体の主権者意識が皮相的なままに留まり、その基盤となる自尊心が構造的な基盤・基礎としては根付いていないことの表れのように思えます。

 そして多少でもこの解釈が当てはまるのであれば、私が携わってきたこれまでの社会科教育は根無し草の主権者意識の育成、観念的でしかない認識育成の部分が多かったのではないかという、取り返しようのない反省に行き当たることになった、と考えています。

 こうした解釈は短絡的に過ぎるでしょうか。
 「爾臣民」の語を”今の時代に生きていく上での心得の一つ”とする講話が12年もの間何も反論されずに継続されていたという事実に、取り立てての反応が示されない社会状況は、どういうことなのか。なぜそうなっているのか。別の解釈がありうるのでしょうか。

 私のこの解釈は、上記のように自己否定の意味を含んでいます。そのことが、話題提起を逡巡した理由の一つでもありました。今は、自己のことよりも「爾臣民」の語を今の時代に通用させてはならないとの思いを優先させ、このメールを発信することにした次第です。

 私見そのものの話題提起ですが、感想・意見を頂ければ幸いです。

                            転送・拡散は自由です

 


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