★ 安原陽平さんの講演『教育DXと教育の自由試論』
~教育のデジタル化により教育の自由が侵害されるおそれはないのか
青木茂雄(元都立高校教員)
教育のデジタル化について、やたらとかまびすしい。暗々裏に“教育が一番デジタル化に遅れた領域である”という叱責のようなものが聞こえてくる。2018年告示の新学習指導要領以来、「主体的で対話的な深い学び」、「観点別評価」、etc.次々に打ち出される新機軸に加えて「免許更新講習」に代わる「新研修制度」、そして「デジタル化」である。
一体、学校現場はどうなってしまっているのか。何よりも、教育のデジタル化によって教育の自由がそこなわれることはないのか。その問題点を獨協大学の安原陽平さんに教育法的な観点から講演してしていただいた。以下はその梗概である。
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教育DX(デジタルトランスフォーメーション)と、「教育の自由」との関連について、
①個人(教師や生徒)の権利が侵害されているかどうか、
②教師集団の独立性が侵害されていないかどうかの観点から検討する。
谷口聡氏も指摘しているように(『教育DXはなにをもたらすか』大月書店、所収論考)デジタル化が教育の在り方そのものを変えてしまうおそれがあり、その影響は大きいと考えられる。
大学レベルでも、オンラインなどデジタル化により教授方法が特定化され、教育の方法の画一化のみならず、教材の取捨選択にも影響し、教育内容が限定されるという問題点が指摘されている。
経産省や文科省など強力に推進されている小中高の教育DXでは、教育空間の変化がいっそうドラスティックに起こることが予想される。問題点は、
第1に、これまでの黒板と教科書の授業からデジタル化の制度設計により、方法を通して教育内容への介入が行われやすくなることである。
第2に、市場の原理からの教育の方法と内容に介入という問題点がある。
第3に、教育DXが、内閣が総合調整するという強力な政治主導で行われており、学習指導要領などを通した教育課程による統制を越えた管理統制が行われるのではないかと懸念される。
第4に、大量データの追跡的な集積により.生徒のプライバシーが侵害されるのではないのかというおそれが各方面から指摘されている。
このようなデジタル化に伴う問題点に対して「教育の自由」という観点から教師の果たす役割は重要だと考える。
教師の「教育の自由」は、生徒の学習権の保障のために、学問の自由と直接責任の原則に基づいて、教育の内容を設計する権利であるが、とくにデジタル化という事態の中で、その事が一層重要になっている。
予防訴訟一審判決で示された「国家が一定の観念を一方的に教えこもうとすること」に対する防波堤の役割を、「教育の自由」の立場から教師が果たすことが期待されている。
教育DXにおいて決定的に問題なのは、権利主体としての子どもの存在が抜け落ちていることである。何をどう学ぶかを選択する余地、つまり自己決定権が子どもにはある。また、人間には不自由を選ぶ権利すらあるのだ。
教育DXは、教師の仕事から専門性を奪おうとしている。これが“ティーチングからコーチングへ”である。
従来教師の専門領域であった“ティーチング”に企業が介在しようとしている。企業が設定する教育のプログラムによって教師の「教育の自由」が大幅に制約されようとしている。教育DXには、人権論と教育論が決定的に欠落しているのである。
その行きつく先は「人格の完成」ではなく、経済的価値からの人材の完成にほかならない。人権論の再定義と教育における“公共性”が再提起されなければならない、と考えている。(構成青木茂雄)
「日の丸・君が代」強制反対 予防訴訟をひきつぐ会通信『いまこそ No.30 号外』(2024年1月31日)
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