HAPPY NEW YEAR 2008
最近気になる言葉
最大多数の最大幸福
the greatest happiness of the greatest number
「社会とは、いわばその成員を構成すると考えられる個々の人々から形成される擬制的な団体である。それでは、社会の利益とは何であろうか。それは、社会を構成している個々の成員の利益の総計に他ならない。」(『道徳及び立法の原理序論』)
個人は実体であり、社会は擬制である。社会の幸福は実体がなく、実在するのは個人の幸福のみである。従って、社会全体の幸福とは、個人の幸福の総和しかありえない。その際誰もが一人1単位として計算されるのが近代市民社会の原則である。個人の幸福を離れて「社会の幸福」が独立して存在するかのように語るのは大きな勘違いである。
ベンサムは功利主義者に分類される。19C功利主義は、個人主義・自由主義の一類型といってよいだろう。普通選挙権獲得運動が盛んになった時期で、議会改革を提唱したベンサムは「哲学的急進派」と称された。職業は弁護士、法律の専門家である。
【個人の幸福】
快楽は「量」に換算して計算できる。もちろん快楽は「主観」的なものである。
幸福とは、快楽と苦痛の差であり、快楽=幸福=善は同義である。
【社会の幸福の計算】
社会全体の幸福量は、全構成員の利益の総和で求められる。
一人一人の幸福は「主観的」であり、かつ構成員の利害は相関関係にあるから、誰かの利益が誰かの損失になることもある。そこで、差し引き総合計の最大値を求めなければならない。その時の原則は、一人は1単位として計算されることである。
(貴族政治の否定。一人一人等質な個人で形成される近代市民社会の原則。)
例として、1人の幸福量が100で、99人がそのしわ寄せで-1ならば、社会全体の幸福量は、100×1-1×99=1でしかない。
逆に100人がささやかに1ずつの幸福量しかない場合の全体量は、1×100=100である。社会の幸福量は、はるかにこちらが勝っている。
後の「所得再配分」の基礎理論にもなっている。「限界効用説」を取り込めばより精度が上がる。経営学的に言えば一種の社会の「損益分岐点」計算とも言える。
【実在するのは個人の幸福】
実在するのは「人間」であり、「社会」や「国家」は擬制であって実体はない。
実在する幸福とは「個人」の幸福であり、それを離れた「社会」の幸福なるものは実在しない。
どんな個人も1単位で計算するのが近代市民社会の原則であるから、社会の幸福とは実在する個人の幸福の合計量で計算されたものであり、それ以外に別に「国益」が存在することはありえない。
(個人の幸福を離れた「国益」が語られる時、得てして特定個人(グループ)の私利私益の別名で使われることが多いことに注意しよう。
「全体の奉仕者」という言葉も、個人を離れて別に奉仕すべき「全体」が実在するわけではないことを思い起こそう。)
【良い立法】
法の支配(rule of law)する国家において、最大多数の最大幸福を実現する方法は、可能な限り多数の利害が反映される形で立法を行うことである。
良い議会=可能な限り多数の参加→良い法律
ベンサムらの運動により、1832年第一次選挙法改正で有権者が人口の3%→5%に拡大した。これで議会の決定(立法)は、「最大多数の最大幸福」にほんの少し近づいた。普通選挙法の完全実現こそ、ベンサムにとって「最大多数の最大幸福」を具体化するための立法課題だったのである。
ここでも大原則は「一人一票(one man one vote)」である。それを外すと、社会の幸福は、全構成員の利害を反映しない歪んだものになってしまう。
「人間を自動的に有徳にするような法体系」とはいかにも功利主義的な言葉ではないか。
【格差社会】
今の日本は、どう見ても「特権少数の最大幸福」か「最大多数の最大不幸」に成り下がっている。一番肝心な個人主義と自由主義をはき違えると、議会制度の名を借りた封建身分制社会同然になってしまう。これはとても近代社会とは言えない代物だ。「社会の幸福」なる実体のない虚像が、「一人一人の幸福」を踏みにじっていないか。
選挙の代わりに「幸福投票」をしてみてはどうだろう。「幸福」か「不幸」か単純二者択一で、全有権者が「一人一票(one man one vote)」で投票したら、今の日本の個人の幸福量の総体が鮮明になるのではないだろうか。 (初夢)
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