一応「
ペットロスのこと #2」からの続き。#1と#2では、これまでの自分の状態の推移、そして現状を書いてみた。今日はそれとは関係なく、主にぼあちゃんが亡くなってからこれまでの間のペットロスへの対処とかその他諸々について、儂が感じてることや思ってるとを書いてみる。
「
ペットロスのこと #1」で書いたように、儂、ぼあちゃんが亡くなってわりとすぐに、精神的におかしいなと感じ始めた。そしてこの時、儂もペットロスになるなと思った。
もちろん、防げるものなら防ぎたかったし、防げないにしてもできるだけ軽く済ませたいと思ったので、とりあえず
ネットでいろいろ読んでみた。
すると、どのサイトにもだいたい同じようなことが書いてあった。
- ペットの死は悲しんでいい。
- 悲しみを遠慮なく表に出す。
- 話を聞いてくれる人を見つける。
- 葬儀やお別れの時間を大事にする。
- 急いで折り合いをつけようとしない。
- 自分を責めない。
- 新しいペットを飼う。
等々。
いろいろ読んでみると、大まかな考え方の部分ではどれもそうだなと思うと同時に、具体的なことはやっぱり人それぞれかなというのが実感だった。
そんな中で、最初に読んだのが養老孟司先生の記事。
愛猫失い1年 養老先生の思いとは 死を受け入れる過程は言葉にできない:東京新聞 TOKYO Web
解剖学者の養老孟司さん(84)=写真=は約一年前、十七年共に暮らした猫「まる」の死を経験した。テレビ番組で取り上げられたり、写真集にな...
東京新聞 TOKYO Web
ここにはわずかな事しか書いてなかったんだけど、「ペットロスはこうするのがいい」みたいなハウツーサイトより、ずいぶんと役にたったなというのが、この時の儂の実感。「こうした方がいい」より「自分はこうだった」という内容の方が、儂には合ってるみたい。
今回のことで一番助けになったかなと感じてるのは、やっぱりブログかな。ブログに自分の思いを吐き出したおかげで、少しでも心を軽くすることができた気がする。さらに、それを読んでいただける方がいて、たくさんの言葉をいただけて、どれももの凄く心に沁みた。それで涙が出たことも何度もあるけど、何かしら言っていただけることでとても元気づけられ、とてもありがたかった。
これは前にも書いたことなんだけど、よくコメントをいただくお坊様から、「今のこの悲しみを大切にして下さい。この先、時薬が癒してくれるけれど、この時はもう戻って来ないから存分に悲しんでいいんですよ」という言葉をいただいた。儂、この「悲しみを大切にする」って、本当に本当に大事で必要なことだなと思ってる。
このように、ほとんどがありがたい言葉だったんだけど、実はグサリとつき刺さったものあった。そのうちの一つが、
「犬なんかとは比較にならないと思うけど・・・」
これはブログじゃなくて直接言われたことなんだけど、「亡くなったのが犬や猫じゃなくて、トカゲでまだ良かったね」と言いたかったらしい。さすがにこれは堪えた。
決して悪気があったわけではなく、トカゲに比べれば、ワンちゃんやネコちゃんは人間に近くて喜怒哀楽もはっきりしてるし、飼い主にも懐くという感覚なんだろうなと思った。
でも、トカゲだって十分コミュニケーションは取れる。それに、一方通行の愛情、なんの見返りもない愛情だってあるし、それで十分なんだ。
大事な家族を亡くした悲しみが、そんなことで違うわけもなく、亡くした命の種類なんかにはまったく関係ない。儂だってワンコを飼っていた。そしてその子を亡くした。でも、その時と何も変わらない。
前回の記事に書いた消化器内科のDr.にペットを亡くした話をした時、「ワンちゃんですか?ネコちゃんですか?」と聞かれた。先のことがあったので、笑われるか何か言われるかなと思い、ちょっと躊躇しながら「トカゲなんです」と答えた。そうしたらその先生、普通に「あ~そうなんですね、それが原因というのは十分考えられますね。」と言って、カルテにもちゃんと「トカゲ」と書いてくれていた。「もしかして飼ってる?」なんて思っちゃったw。
また、「うちも14歳の金魚が天に昇った時、かなりのダメージだったからわかるよ。」と言ってくれた友人だっている。やっぱりわかってる人はわかってるよねと思った。
世間には、「人間>>・・・>>人間以外の哺乳類>>>>哺乳類以外の動物」、といった価値観の人は多いんじゃないかとも思う。でも、これは是非ともあらためてほしいというのが正直な気持ち。それと、ペット = 犬・猫という固定観念も。。。
閑話休題
その後、先に書いた養老先生の記事で紹介されてる本も読んだ。ペットロスを防ぐためにとか軽く済ませるためにっていうことが書いてあるわけじゃなく、まるちゃん(養老先生のネコちゃんの名前)との日々やその死を通して、養老先生が思う、人間の社会のことや生き物のこと、死や命のこと、仏教のこと、そしてペットロスのことなどが語られている。
儂、読んでいてとても頷くことが多かった。おまけに、たくさん載ってるまるちゃんの写真も、めっちゃ可愛くて癒された。この本を読んで、やっぱり儂の場合は、ペットを亡くした人の話を聞いたり読んだりして、そこから感じたことや思ったことを自分なりに咀嚼し、最後は自分で考えるのがいいんだなと、あらてめて思った。
特に養老先生のような方の思われることはとても勉強になるし、心に沁みることもたくさんある。その中から、儂の気持ちにピッタリだったものを一つだけ引用させていただく。
毎日あいさつを交わすのでもなく、置物みたいに、ただ縁側に寝転がっているのをこちらが眺めていただけなのだが、それで心が温まる気がしていた。死んでわかったことは、結局は、向こうが私を気にかけていたのではなく、こちらが向こうを気にかけていたのだ。それが突然、いなくなった。よく「心にぽっかりと穴が空いた」という。だが、それでは言葉が足りない。おそらくいくら探しても言葉は見つからないだろう。言葉というものは、ことほどさように、無力である。(P.168)
そして、もちろん仏さまの言われていることにもずいぶん救われてる。仏さまの勉強をしていて、心底良かった。
辛い時や悲しい時に、仏さまが言われているいろいろなことを思い出し、それを考えるだけで楽になることも決して少なくない。ただし、まだまだ修行が足りないので、すぐに元に戻っちゃうことが多いのも本当の話w。
もっとも、あまりに考え過ぎたからか、「ん?ちょっと待てよ、それ正しい?」(スミマセンスミマセンスミマセン💦 なんて思い始めたこともいくつか出て来たちゃって、それはそれでちょっと困ったけどw。
ちなみに、儂、仏さまにお祈りすれば霊のように現れて助けてくれるとか、自然に気持ちを変えてくれるとか、そんなスピ的なことはまったく思ってないので悪しからずw。
このことは、また別に書こうと思う。(と、また出た、得意の台詞w。)
このようにいろいろなことが助けになったことは紛れもない事実。その中で、ペットロスを解決(?)してくれる一番手は、やはり時間なんじゃないのかなと思った。前述したお坊さまのコメントにもあった「
時薬」という言葉は、全くその通りだなと感じてる。
ただし、儂の場合には、そろそろ大丈夫かなと思っても、未だにかなり波を感じていて、揺り返しみたいなものが来たりしている。
だから、実は現状でペットロスから抜け出せているのかいないのか、自分ではよくわかっていない。以前のように涙そうそうっていうことはなくなった。でも、未だに四六時中ぼあちゃんのことを思うし、家中どこにでもあの子がいるように感じる。いやいや、外出してる時でさえぼあちゃんが一緒にいるって思うことがある。
いわゆるペットロス、つまり、ぼあちゃんやむくちゃんがいなくなったことによる直接の弊害は、少なくとも当初に比べればかなり少なくなってるように感じる時が多い。でも、そうでもないと感じる時もある。もしかしたら、まだまだ「時薬」が足りてないのかもしれない。
それに、前回も書いたように、儂の場合にはペットロスが引き金になったであろう障害が確かにある。これって、自分の背景因子に依るところもかなり大きいんじゃないかと思う。そしてこれが事を複雑にしてるのかなとも思うw。
(実はペットロスとは関係なく、ぼあちゃんが我が家の家族になる前からずっとストレスの元になってることもある。。。)
ペットロスを経験した人も現在進行形の人も、あるいはこれからかもという人もいるだろう。そしてその程度も種類も千差万別じゃないかな。だからその対応方法も、やっぱり人それぞれで個体差個人差があるんじゃなかろうか。
ただ、もしかしたら、「自分の感情や思いを遠慮なく吐き出すこと」と「それを聞いてもらうこと」、そして「時薬」ということだけは、ほとんどの人に共通なのかなと思うんだけど、どうかな。
「みなさん、パパに声をかけてくれてどうもありがとう。」(byぼあ)
「これからもパパのことをよろしくお願いします。」(byむく)
うーん、書けば書くほどまとまらなくなってきたw。それに、自分で言うのもなんだけど、今のところは、まだ、わりと自分のことを客観的に観察できてるかなと思う。これができてるうちは大丈夫かなと思ってる。
なので、今回のペットロスのことはとりあえずこれ位にしておこうかな。