わけのわからないことの3回目。
今日はまず、儂自身のことを少し。
前回の記事に、「親が亡くなっても悲しみを感じない人がいるみたい」と書いたけど、実は儂もその一人だったかもしれない。
儂の父親は88歳で亡くなった。10年程認知症で、母親がずっと自宅で介護していた。そして、亡くなる少し前からは他の病気を併発して入院していた。
その病院から、突然、父が亡くなったという連絡があった。それまでに「そろそろかもしれません」と言われたことはなく、家族にとっては、文字通り突然死だった。詳細は書かないが、主治医から亡くなった時の説明を受けた時に、「医療ミスと言えば言えるかな」と思える状況だった。
病院からの連絡は儂の携帯電話にだった。まず母親に連絡したらしいが、繋がらず、儂の電話にかけてきたようだった。その時儂は車を運転していたので、妻が代わりに電話に出た。そして「お父さん、亡くなったって」ということを聞いた。それから急いで病院に向かうために高速に乗った。でも 、気がついたらまったく違う方向に進んでいた。今いる所から病院にはどう行けばいいのか、そういうことすら考えられなくなっていたんだと、後から思った。よく「頭の中が真っ白に」と言うけど、こういうことを言うんだなと、よくわかった。
亡くなった連絡を貰った時にはこういう状況に陥った。でも、その後はほとんど悲しみを感じなかった。父親は家族の誰にも看取られずに亡くなった。しかも、もしかしたら医療ミスによるかもしれない突然死だった。それにもかかわらず、あまり悲しいと感じなかった。ぼあちゃんが亡くなってから流した涙の量を思うと、父親には大変申し訳なく思う。
別に覚悟していたとかいうわけではない。ぼあちゃんの時の方がよほど覚悟していた。
亡くなった連絡を貰った時にはこういう状況に陥った。でも、その後はほとんど悲しみを感じなかった。父親は家族の誰にも看取られずに亡くなった。しかも、もしかしたら医療ミスによるかもしれない突然死だった。それにもかかわらず、あまり悲しいと感じなかった。ぼあちゃんが亡くなってから流した涙の量を思うと、父親には大変申し訳なく思う。
別に覚悟していたとかいうわけではない。ぼあちゃんの時の方がよほど覚悟していた。
でも、父親は十分に生きたと思うし、晩年は認知症でまったくコミュニケーションがとれなかったし、介護をしていた母親のことも、このまま介護が続くと母親が大変だなと思っていた。多分、こういう思いが絡み合って悲しみの気持ちが薄れたんじゃないかと思うけど、よくわからない。そんなことではなく、単に儂が薄情なだけなのかもしれない。
また、儂の祖母は83歳で亡くなった。今から50年近く前の83歳なので、寿命を全うしたと思う。やはり晩年は認知症で、この時も、亡くなるまでずっと、母親が仕事をしながら自宅で介護していた。
亡くなる数日前、主治医から「あと2、3日です」と告げられた。そこで、当時浪人生で一番自由だった儂が、夜通し、寝ずに祖母の枕元にいた。そして、まさに亡くなる瞬間に立ち会ったのは儂だった。
儂は子供の頃に両親が働いていたので、この祖母に大事に大事に育てられた。だから、亡くなった時はものすごく悲しかった。ただ、その悲しい気持ちはわりとすぐに薄くなった。この時、悲しさがあまり続かなかったのも、父親の時と同じようなことが理由だったのかもしれないと思う。ただこの時は、悲しみの代わりに、どうしようもない寂しさがずっと後まで残った。
儂は子供の頃に両親が働いていたので、この祖母に大事に大事に育てられた。だから、亡くなった時はものすごく悲しかった。ただ、その悲しい気持ちはわりとすぐに薄くなった。この時、悲しさがあまり続かなかったのも、父親の時と同じようなことが理由だったのかもしれないと思う。ただこの時は、悲しみの代わりに、どうしようもない寂しさがずっと後まで残った。
最初の記事に書いた、「寿命と言われるような年齢で亡くなった場合には、『時薬』の効果が出て来るのが少しは早いのかなと思う」というのは、こういった経験からも来ているのかもしれない。
亡くなった時の悲しみがどんなに深くても、寿命を全うしたと思われるような年齢で亡くなると、もしかしたら、自分を納得させやすかったり、あるいはあきらめがつきやすかったりするのかもしれないなと思ってる。
つまり、「もうこのくらいでいい・・・」ということかな。
これ、もちろん自分自身もそれでいいと思ってる。むしろその方がありがたい。
ただ、これがペット(やっぱりこの言い方は好きじゃない)の場合には、事はもう少し複雑になってくるんじゃないかなと思ってる。
ぼあちゃんが亡くなったのは、推定5歳。フトアゴの寿命は5~10歳と言われているので、まあ寿命と言えば寿命だった。でも、あと2、3年位生きてくれていれば、本当に寿命で亡くなったんだなと思えたかもしれない。(と言うことは、やはり今はそう思ってないということなのか。。。)そしてもしかしたら、今よりも多少は納得しやすかったかもしれない、、、なんて、おそらくそうはならなかっただろう。なぜなら、
あの子は儂にとって子供のような存在だったから。
確かにあと2、3年生きてくれれば、人間の年齢で言えば儂よりも高齢者だった。でも、儂はあの子を子供のように思っていた。
誤解を恐れずに言えば、ペットを失うというのは、子どもを失うのと同じようなことなんじゃないのかなと思う。
もちろん、世の中のペットと飼い主(この言い方もあまり好きじゃない)の関係はいろいろだろうから、一概には言えない。ましてや子供の場合の辛さは比較にならないほどのものだろう。ただ、例え比べようがないほどの差はあっても、両者には何かしら相通じるものがあるんじゃないのかなと思う。
また「まる🐾ありがとう」から引用してみる。
~(前略)~昔の人の意識にごく自然に備わっていた死に対するある種の諦念が希薄となり、生への期待が極端なまでに高まっていった。ペットロスという概念も、おそらくその延長線上にある。動物を飼う目的が使役だった時代には、飼い主は恬淡としていたが、愛玩動物は心の拠り所となりやすい。そうなると感覚的には、ペットの死も肉親の死に近くなる。突然訪れた身近な死は、すぐに受け入れ難い。それが人だけではなく、同居する動物にまで広がったのが、ペットロスという現象なのだろう。
(P.56~)
これが書いてあるのは「人命は地球より重いか」というタイトルの章で、この文章の前にそのことが書いてある。初めから引用してしまうと長くなってしまうし、著作権のこともあると思うので、最後の部分だけを書いた。でも、養老先生が言いたかったことが正しく伝わらないかもしれないので、やはり本を読んでいただきたいと思う。
また、前回の記事に書いたペットロスに詳しい精神科のDr.は、
「愛していたものがなくなる」とき、我々の心や身体にはその影響が出る。これを「喪失反応」という。「喪失反応」は、相手が、肉親、兄弟、配偶者、子供、友人、大切なモノ、自分の身体等のいずれでもだいたい同じ経緯を保つ。この中で一番つらいのが「自分の子供がいなくなること」であり、これだけは別格の極端な辛さが生じる。いずれにせよ、「喪失反応」は、個々で強さや時間経過は異なるが、「なくてはならないもの(あって当然のもの)」である。
といったことを書かれている。これは儂が文意をまとめたものなので、できればDr.の書かれたものを直接読んでいただきたい。
これらを読んでわかるように、今はペットの死は肉親の死と変わらなくなっていることがほとんどなのだと思う。それも、ペットが子供のような存在だった飼い主が多いのではないのかなと儂は思ってる。少なくとも儂はそうだった。
だから、ペットの場合は、実年齢とは関係なく、そう簡単には「もうこのくらいでいい・・・」と納得できないことが多いのではないかと思う。
これくらいが前回の記事で書き残したことかな。最初の記事の最後と同じで、「だから何?」という感じだけどw、結論のようなものが書けるとは端から思っていなかったし、儂はこう思うこう考えるということを、なんとか言葉にしたいと思って書いてみた。
儂は今回のことで、あらためていろいろなことを学ばせてもらったり考えさせてもらった。その中で、ぼあちゃんを失ったことを、まだ完全には受け入れられていないことに気づけたのは、儂にとっては有り難いことだった。
そして、最初に書いた「生者必滅会者定離」が当たり前のことなら、今回のような話をもう少し普通にできるような世の中になるべきだと、強く思った。そうすれば、いざという時に、今よりは少しでも悲しみや辛さを減らせるんじゃないのかなと思う。
それから、これはペットロスのことではないんだけど、ペットの死と肉親の死がほとんど変わらなくなっているのであれば、ここに書いてあることも何かの役に立つかもしれないと思うので貼っておく。
そしてまた、
去年の今日のぼあちゃんの写真全14枚を時間順に。
7時26分 お目覚めから1時間ちょっと経った頃、"居間"で。
7時55分 ベランダの夏用ネットケージ。
9時27分 ベランダの夏用ネットケージ。お日様に当たってちょっと暑い?
10時49分 廊下に出ようとして出ず、この後キッチン侵入。
10時58分 ママにキッチンから強制排除されたけど、"居間"でご飯。
11時55分 ケージのスロープに上って膠着。
12時16分 "居間"でランプバスキング。
12時55分 ベランダに直接出ると、
12時56分 ちょっと警戒態勢でウロウロ。
1時2分 大分慣れて来た?
1時39分 やっぱりケージの中が安心かな?
2時30分 「お日様気持ちいいわ~」 でぷっくん。
3時39分 葉っぱで釣ったら渡り廊下まで来た。でも食べたらまた戻っちゃった。
4時22分 部屋に戻って来たところで儂が抱っこ。
5時半頃にはZzz...になってので、ケージの寝床に戻しておやすみなさい。