「 キリストの名に於いて 何事でもなす 」 ということは、
愛の実相に於いて 何事でもなすということである。
仏性によって 何事でもなすということである。
吾々は 何事を為すときも キリストの名に於いて、仏性の名に於いて
これを なすべきであるのである。
キリストが報いを求めて 人を癒(いや)したということはないのである。
観世音菩薩は お賽銭(さいせん)を目的に人を救ったということもない。
常に自己に宿るキリストを自覚して、又 仏性を自覚して、何事をも なす時は、
その人の行いは 自(おのず)から浄(きよま)ったものになるのである。
『 生長の家 』 昭和二十五年二月号 九日の法語 谷 口 雅 春 先 生