「キリストの贖いの犠牲の無限の光が届かない深みなどあり得ないのです」
(放蕩の果てに-家へと続く道 ウークトドルフ長老)
「どうしてこんなわたしに主の愛を感じられるのだろう」
よくそんなことを考えました。
自問しました。
「わたしは善い人間だろうか?」
とてもそうは思えません。
「主に従っているだろうか?」
見せかけだけは何とか保っています。
でも心の内は高慢なままです。
そのことを知っているので不思議に思えました。
ただひとつだけ、「主に従いたい」その気持ちだけは確かです。
もしかすると‟キリストの光”とはそれなのかもしれません。
(放蕩の果てに-家へと続く道 ウークトドルフ長老)
「どうしてこんなわたしに主の愛を感じられるのだろう」
よくそんなことを考えました。
自問しました。
「わたしは善い人間だろうか?」
とてもそうは思えません。
「主に従っているだろうか?」
見せかけだけは何とか保っています。
でも心の内は高慢なままです。
そのことを知っているので不思議に思えました。
ただひとつだけ、「主に従いたい」その気持ちだけは確かです。
もしかすると‟キリストの光”とはそれなのかもしれません。