「わたしはあなた方が…交わした聖約を知っている。わたしは自分の民と聖約を交わし…」モーサヤ24:13
ある中学生と将来のことについて話し合っていると、
「学校を卒業したらもう勉強したくない」と言いました。
学ぶことの大切さを伝えたいのですが、どうすればよいでしょうか?
わたしが感じたのは‟約束を守る”ことです。
学校でも社会でも、問題視される人に共通しているのは
‟約束を守らない”ことのように感じます。
職場では働きに応じての報酬が約束されています。
職場の求めに応じて働くという約束のもとに雇用されるのです。
学校を卒業して社会人になるとき、
ほとんどの人は約束された報酬を受けるだけの能力がありません。
職場は、時間と経費をかけて‟報酬を受けるにふさわしく育てる”覚悟で
新入社員を雇い入れます。
当然のことですが、雇用される側には
‟報酬を受けるにふさわしくなるために学び、努力し、励む”という覚悟が求められます。
それは新卒として就職するときの約束事として必ず存在するものです。
聖約(主とわたしたちとの間の約束)にも似たようなことがあるように感じます。
自分は主の祝福を受けるにふさわしい者であると主張できるでしょうか?
これまでに受けた主の祝福について考えるとき、
「自分のふさわしさが足りないのにどうして?」といつも思います。
それだから感謝があるのですが、もしかするとそれは新卒時の報酬と同様かもしれません。
主との聖約を交わすためには「ふさわしくなるために学び、努力し、励む」
という意志が必要だと思えるのですが、皆さんはどう思いますか?
ある中学生と将来のことについて話し合っていると、
「学校を卒業したらもう勉強したくない」と言いました。
学ぶことの大切さを伝えたいのですが、どうすればよいでしょうか?
わたしが感じたのは‟約束を守る”ことです。
学校でも社会でも、問題視される人に共通しているのは
‟約束を守らない”ことのように感じます。
職場では働きに応じての報酬が約束されています。
職場の求めに応じて働くという約束のもとに雇用されるのです。
学校を卒業して社会人になるとき、
ほとんどの人は約束された報酬を受けるだけの能力がありません。
職場は、時間と経費をかけて‟報酬を受けるにふさわしく育てる”覚悟で
新入社員を雇い入れます。
当然のことですが、雇用される側には
‟報酬を受けるにふさわしくなるために学び、努力し、励む”という覚悟が求められます。
それは新卒として就職するときの約束事として必ず存在するものです。
聖約(主とわたしたちとの間の約束)にも似たようなことがあるように感じます。
自分は主の祝福を受けるにふさわしい者であると主張できるでしょうか?
これまでに受けた主の祝福について考えるとき、
「自分のふさわしさが足りないのにどうして?」といつも思います。
それだから感謝があるのですが、もしかするとそれは新卒時の報酬と同様かもしれません。
主との聖約を交わすためには「ふさわしくなるために学び、努力し、励む」
という意志が必要だと思えるのですが、皆さんはどう思いますか?