rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

体験的くるま論 メルセデスベンツVクラス230

2008-04-30 19:49:24 | くるま
体験的くるま論 メルセデスベンツVクラス230

自分で運転していた車についての評論です。専門家ではないから誤りもあるかと思いますが、基本的には自腹で買った好きな車についての雑談です。

ベンツVクラスは98年に初めて外車、しかも今までトヨタを愛用していた私が高嶺の花と思っていたベンツを思い切って買った第一号です。かしこまった雰囲気のヤナセに入るのは敷居が高い感じでしたが担当の方の対応も気持ち良いものでした。

その時ライトエース「ノア」初代に乗っていたのですが、これは私が子供の頃こんな車があったら良いのにと想像図を書いたのをそっくり現実化したような良い車で車検が迫っていたものの特に手放す気持ちになれませんでした。他の車にするなら「ノア」を超える良い車しかあり得ないと思い雑誌をめくっていたら何とあのベンツからこのVクラスが出ていた訳です。当時は現在ほどワンボックスやミニバン全盛の時代ではありませんでしたので選べる車種もトヨタはグランビアやハイエース、日産は初代セレナ、エルグランド位しかなくVクラスの実車を見たときの斬新さ、美しさは他を大きく離していました。

<Vクラス(前代)の魅力>
何といっても車内の広さとガラス面が多い事からくる解放感、明るさ。6席全てがキャプテンシートという思い切った豪華さ。グランビアも車内の広さは文句ないのですが、車内の広さに比較して運転席が狭い。何といっても運転手である自分が広く使えなければ広い車に乗る意味がないでしょ。まるで乗り合いバスの運転手みたいで。それに比べてVクラスの運転席の解放感、広さはショウルームで乗った他の日本車ワンボックスには全くないものでした。恐らく現在(08年)でも数年前より各車の運転席は広くなっているでしょうが、当時のVクラスを超えるものはないのでは。今は珍しくなくなったけれどダッシュボードにシフトレバーがあるのも、前の席どおし、また後ろの席までフラットフロアで移動できるのも斬新だった。後から出てくる日本車の多くがVクラスを意識した造りになっていた(特にステップワゴンとか)ので何か自分に先見の明があったように感じたものでした。

<Vクラスへの苦言>
インターネットでもVクラスの故障の多さは話題になっていましたが、ご多分に漏れず私のVも7年で2―3回壊れました。特に電気系統がいかれて自動変速が効かなくなりダッシュボードのあたりを全取っ換えしたこともあります。補償期間内だったから良かったけど。Vクラスがスペイン製だからとか、無理やり右ハンドルにしたからとか言われてましたが、他のベンツがそんなに故障しない(1回位はするらしいけれど)ことからどうもVクラスはベンツの中ではユーザー、ディーラー両方にとって「困ったちゃん」に入る部類だったのかも知れません。しかしヨーロッパに行った時にはあらゆる種類(商用車含めて)のVクラスを頻繁に見かけたからそんなに欠陥車であるはずもなく、これは日本で売られているVクラスに特有のものだったのかも知れません。
ステレオ系が貧弱、2000年の前とはいえカセットとラジオが標準はあまりにも貧弱。400万以上するベンツですよ。オートバックスでCD付けたけど。

<Vクラスの走り>
2300ccではこの大きな車体を引っ張るには重い。でも一度スピードに乗って高速を走っているような時には路面に吸い付くような安定した走りでとても安心感がありました。ノアの時には120キロ超えると空を飛びそうな感じでしたけど140出ても全く不安がない。さすがアウトバーンで鍛えた車だなあと感心。ロードノイズはやや大きめ。都心や狭い路地が多い所ではやはり走るの苦しい感じだったかな。でも大きなベンツマークのおかげで大抵道は譲ってもらえた。燃費はリッター6キロ台で長距離乗る人には辛いかも。

<隠れた魅力>
運転席に座った時のコックピットとスクエアな広い視界は第2次大戦中のメッサーシュミットBf110双発の重戦闘機のコックピットを思わせるんですな。メッサーシュミットのエンジンはダイムラーベンツ(フォッケウルフはBMW)。V280はフォルクスワーゲンのエンジンですが230はベンツのエンジンだったから、横置きでFF、細かな振動がハンドルに伝わるけれど「シュルルル」というベンツのエンジン音は何とも魅力的だったです。実はこれが一番気に入っていた所かも知れません。
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映画 「Mr.Brooks 完璧なる殺人者」感想

2008-04-30 19:29:02 | 映画
映画感想 Mr.Brooks ー完璧なる殺人者ー
監督 ブルース・A・エバンス 出演 ケビン・コスナー/ウイリアム・ハート/デミ・ムーア他

昨年外国に行く飛行機の中で見た。今年(08年)の5月に日本公開だという。サイコスリラー的な作品で日本で爆発的にヒットするとも思えないが、お子様向けのつまらない映画が多い最近の洋画の中ではかなり面白い作品ではないかと思った。

アメリカの地方都市で経済界の名士として活躍し、模範的な社会人であり、夫であり、父親であるアール・ブルックス(K・コスナー)にはもう一つの連続殺人鬼としての顔が隠されている。殺人を犯す時の彼は用心深く、しかも表の顔が素晴らしいので誰も彼を疑ってはいない。この映画が秀逸であるのは彼の悪魔の人格を別の俳優(W・ハート)が演じていて、心の葛藤を画面ではあたかも二人の人間(マーシャルという別人格としてブルックスは対している)が会話をするように見せている所である。つまり殺人をやめて善良に生きたいとするブルックスを「そろそろ殺人をやりたいだろう、いままで同様ばれることはないよ」と別人格のマーシャルがしきりに唆すのである。

マーシャルの方が人間(悪魔?)が一枚上であり、ブルックスはまた殺人を犯すのであるが、たまたまそれを目撃した変質者や彼の血を受け継いでしまった娘がやはり殺人を犯してしまうことの後始末をし、自分の血統を継がせてしまったことを悩んだり、親近感を抱く女刑事(D・ムーア)がからんできたりと物語が展開するのだけれど、私はもう一つの人格であるマーシャルとのやりとりがまるで舞台演劇を見ているような緊張感があって好きである。

自分も含めて人間は誰でも心に悪魔がいると思う。西洋の哲学では人間は悪魔と神の中間の存在であり、長尺の中間地点の神寄りにいるか悪魔寄りにいるかの個人差はあっても完全な悪魔や神はいないのである。従って、誰でも心の悪魔とどのように一生付き合ってゆくかというのが神から与えられた命題であり、生きてゆく上での修業でもあるだろう。マーシャル(ブルックス)は人が殺される直前に見せる恐怖の顔貌が見たくて殺人を犯すのだという。このような理不尽な欲望というのがいかにも悪魔らしい。各人の心に住む悪魔も冷静に考えれば「何故?」と思うようなことを各人にやらせようとしていないだろうか。

ジキルとハイド氏は二重人格であるが、このブルックスとマーシャルは二重人格を表わしているのではない。あくまでブルックスの心の中にいる悪魔をマーシャルという人格で表現しているに過ぎない。このあたりを勘違いしてレビューする人が出てくるかもしれない。殺人を犯すブルックスには感情移入できないけれど、マーシャルとのやり取りや、社会と心の中の対比葛藤という造り込みにおいてこの映画はかなりレベルの高いお勧め作品と言えるように思う。結論は言わない方が良いと思うがこれも現実的でうまい終わり方だと思った。
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