医療者に理不尽なクレームをつけてくる人達は大きく3種類に分かれます。一つは所謂モンスターペイシェントと呼ばれる人達で、「自分だけは特別に扱われるのが当然」と考えている人達。待ち時間が長いとか事務の対応が悪いということで謝罪を要求したり病院にホテルのような接待を要求したりする人達です。この種の人達は教育界のモンスターペアレントやモンスタークライアントと一緒で「単なる我侭」、社会に対して子供のような要求をしてそれが通ると勘違いしているに過ぎない人達です。
この種の人達への対応は「できないものはできない」と言明することで、他人への迷惑になるほど我侭がすぎる場合には警察や法的対応をとることを明らかにすることです。要求の本質は単なる我侭ですから社会常識的対応を取ればそれ以上我侭を続けることはできなくなりますし、本人も自分の我侭に対して法律的対応を取ることはしません。せいぜい「マスコミに訴えてやる」といった捨て台詞を言う程度でしょう。この背景には「弱者を名乗ればマスコミは理由の如何を問わず味方になる」という偏見に基づく甘えの感情があります。
二番目ははじめからクレームの目的が金銭の要求にある人達です。この手の人達は説明や謝罪ではなく「誠意を示せ」という専門用語を用いるのですぐわかります。「金を出せ」と明言するのは「恐喝」にあたることを知っている人達です。この種の人達への対応は即座に法的手段を取る事です。暴力団関係の場合もあるので対応を誤ると暴力をふるわれる場合もあり注意が必要です。
三番目が本日の話題の「病気を誰かのせいにしたい人達」です。実はこれが一番対応に苦慮します。「誰か」とは医師、看護師などの医療者のことです。
「病気になるのは誰のせいでもない」ことは皆承知していることです。しかし自分や自分の家族が重い病気になり、苦しい思いをしたり苦労したりする期間が長引くと「まわりの健康な人達は何食わぬ顔で生活しているのに何故自分だけこんなに苦労しなければならないのか」と思うようになります。それが長い期間になると「何故自分だけ・・」という自問を繰り返し繰り返し行うことになります。勿論この問いには答えなどありません。「これは神から与えられた試練なのだ」と思い受け入れるしかないでしょう。ところが「病気は治るのが当たり前」「医療を行った結果がわるいのは医療ミスである」という風潮が起きてから「病気になったのは仕方ないとして、こんなに苦しい思いをしているのは医療に瑕疵があったのではないか、あの時別の選択をしていれば今こんなに自分が苦労しなくても良かったのではないか」と思うようになります。
この「何故自分だけ・・」の疑問に「あの時医者の診断や治療が間違ったから・・」という答えが出るのではという誘惑はとても強いものです。この時からインターネットをはじめとする「猛烈なエネルギーを使った間違い探し」が始まるのです。苦しい状態が続いていればそれだけ「何故自分だけ・・」の答え探しにエネルギーが注がれ続けてゆきます。「医療は教科書どおりやって60点」と前に説明したように、日常診療において教科書どおりでないことなどいくらでもありますから一般論でしか記載していないインターネットや本で、自分の事例と異なる部分を見つけることは容易です。
「何か違うぞ」という部分が見つかったら、次のステップは「権威付け」です。知り合いに医者や看護婦がいれば完璧です。「本にこのようなことが書いてあったけど、自分の場合はこうだった、これはおかしいでしょ。」と言われれば一般論は正しいことしか書いてないので聞かれた方は「そうかも知れない。」と言う外ありません。私も知人などから意見を聞かれることがあるのですが、もしかするとこの「権威付け」の段階かも知れないと思い答えは慎重になります。何しろ本人にとっては自分の思い込みがこの「権威付け」によって「何故自分だけ・・」の答えとして完成するのですから自分にとって都合のよいようにしか言葉を受け取りません。
「あの時医療者の判断(治療)が誤ったから今自分がこんなに苦労しているのだ。」という答えが出来上がったら次はいよいよ病院に乗り込むことになります。医療者に対して「説明を聞きたい」と言って話を持ってゆきます。患者さんや家族から「説明を聞きたい」と言われればそれに答えるのは医療者の務めですから時間を取って話しを聞くことになるのですが、医療者にとってはここからが大変なことになります。
「なぜこのような判断だったのか」という問いに対する答えは医療者にとって容易に出てくるものです。医療というのは論理で行われるものですから、カルテなどを見ればそのとき何故自分がそのように考えたのかを説明するのは容易なのです。しかし患者さんにとっては医者の論理的説明など初めから聞く耳は持っていません。本の記載と知り合いの医療者の権威付けがあるのですから、相手が「ミスをした」ことを認めない限り「納得できない」の繰り返しになります。
医療者がどんなに懇切丁寧に説明しても「本の記載と違う」「知り合いの医者もおかしいと言った」「納得できない」の三点セットが繰り返されるようになり、ただでさえ多忙な医療者はさすがにいらだってきます。患者側は行動の原点が「論理」でなく自分が苦しい状態にあることによる「感情」にあるのですから医療者側の「感情」が出てくれば自然とヒートアップしてきます。「ははあ、やはりやましいところがあるのだな。」と患者側は確信してしまいます。
医療者側の力量が試されるのはこの段階です。ここで対応を誤れば問題はこじれて一機に裁判まで持ち込まれる可能性があります。暴言などがあっても我侭や金目当てのモンスターペイシェントと同様の法的手段といった対応はこの場合行うべきではないでしょう。いかに理不尽なクレームであっても患者さん側は確信を持って自分が正しいと考えていて、しかも苦しんでいる原因の答えを出すことにエネルギーはいくらでも注げる用意があるのですから。この段階になると「医療ミスを認めさせることは、今後自分と同じ苦しい思いをする人をなくすための正義の戦いである」というところまで思いを高めてしまっている人が殆どです。
医療裁判においても「真実を出しなさい」という言葉は「ミスを認めなさい」という言葉を言い換えたものだといわれますが、患者側にとっての「真実」とは実際はどうかではなく「医療ミス」以外にはありえないのです。なぜなら苦しい思いをしている理由を求めることがそもそもの動機であり、ミスはない、という結論では「なぜ自分が苦しい思いをしなければいけないのかに対する答えが出ない」という振り出しの状態にもどってしまうからです。論理的な判断によって医療者側が無罪になってもマスコミは「法の壁」「医療の壁」を突き崩すことができなかった、などと真実よりも患者側の主張が通らなかったのは不正義として報道するのですが、論理的に真実が明らかになったと何故報道できないのかいつも不思議に思います。
この段階で医療者側のとるべき対応はまず一度話し合いを切り上げることです。その際この場を収めるために安易に「ミスがあったことにしましょう」的なことは絶対に言ってはなりません。日本の政治家はありもしない従軍慰安婦問題を「日本が悪かったことにしてこの場を収めましょう」といったためにその言質をとられて既成事実とされ日本の罪悪として延々謝罪や補償の対象とされてしまいました。ミスがないのにミスがあったような形で収めることは医療者として絶対にやってはいけないことです。
医療者としてはこの精神状態になっている患者さんに対して、その苦しい胸のうちを十分理解してあげることが大事だろうと思います。感情的にならず、あくまで論理的に説明することが大事なのですが、必要があれば患者さんが信頼する冷静な第三者の人をまじえて改めて説明する機会を設けるなどの対応が望ましいでしょう。「病気で苦しい、苦労していることを誰かのせいにしようとしても何の解決にもならない」ことを患者さん自身に悟ってもらわなければ根本的な解決にはならないのですが、これは短時日には解決できない困難な問題であろうと思います。悟ったとしても患者さん側には解決のつかない苦しい思いだけが残るのですから、残念ながら多くは医療に対する不信が残って終わることになるのが現実と思われます。
この種の人達への対応は「できないものはできない」と言明することで、他人への迷惑になるほど我侭がすぎる場合には警察や法的対応をとることを明らかにすることです。要求の本質は単なる我侭ですから社会常識的対応を取ればそれ以上我侭を続けることはできなくなりますし、本人も自分の我侭に対して法律的対応を取ることはしません。せいぜい「マスコミに訴えてやる」といった捨て台詞を言う程度でしょう。この背景には「弱者を名乗ればマスコミは理由の如何を問わず味方になる」という偏見に基づく甘えの感情があります。
二番目ははじめからクレームの目的が金銭の要求にある人達です。この手の人達は説明や謝罪ではなく「誠意を示せ」という専門用語を用いるのですぐわかります。「金を出せ」と明言するのは「恐喝」にあたることを知っている人達です。この種の人達への対応は即座に法的手段を取る事です。暴力団関係の場合もあるので対応を誤ると暴力をふるわれる場合もあり注意が必要です。
三番目が本日の話題の「病気を誰かのせいにしたい人達」です。実はこれが一番対応に苦慮します。「誰か」とは医師、看護師などの医療者のことです。
「病気になるのは誰のせいでもない」ことは皆承知していることです。しかし自分や自分の家族が重い病気になり、苦しい思いをしたり苦労したりする期間が長引くと「まわりの健康な人達は何食わぬ顔で生活しているのに何故自分だけこんなに苦労しなければならないのか」と思うようになります。それが長い期間になると「何故自分だけ・・」という自問を繰り返し繰り返し行うことになります。勿論この問いには答えなどありません。「これは神から与えられた試練なのだ」と思い受け入れるしかないでしょう。ところが「病気は治るのが当たり前」「医療を行った結果がわるいのは医療ミスである」という風潮が起きてから「病気になったのは仕方ないとして、こんなに苦しい思いをしているのは医療に瑕疵があったのではないか、あの時別の選択をしていれば今こんなに自分が苦労しなくても良かったのではないか」と思うようになります。
この「何故自分だけ・・」の疑問に「あの時医者の診断や治療が間違ったから・・」という答えが出るのではという誘惑はとても強いものです。この時からインターネットをはじめとする「猛烈なエネルギーを使った間違い探し」が始まるのです。苦しい状態が続いていればそれだけ「何故自分だけ・・」の答え探しにエネルギーが注がれ続けてゆきます。「医療は教科書どおりやって60点」と前に説明したように、日常診療において教科書どおりでないことなどいくらでもありますから一般論でしか記載していないインターネットや本で、自分の事例と異なる部分を見つけることは容易です。
「何か違うぞ」という部分が見つかったら、次のステップは「権威付け」です。知り合いに医者や看護婦がいれば完璧です。「本にこのようなことが書いてあったけど、自分の場合はこうだった、これはおかしいでしょ。」と言われれば一般論は正しいことしか書いてないので聞かれた方は「そうかも知れない。」と言う外ありません。私も知人などから意見を聞かれることがあるのですが、もしかするとこの「権威付け」の段階かも知れないと思い答えは慎重になります。何しろ本人にとっては自分の思い込みがこの「権威付け」によって「何故自分だけ・・」の答えとして完成するのですから自分にとって都合のよいようにしか言葉を受け取りません。
「あの時医療者の判断(治療)が誤ったから今自分がこんなに苦労しているのだ。」という答えが出来上がったら次はいよいよ病院に乗り込むことになります。医療者に対して「説明を聞きたい」と言って話を持ってゆきます。患者さんや家族から「説明を聞きたい」と言われればそれに答えるのは医療者の務めですから時間を取って話しを聞くことになるのですが、医療者にとってはここからが大変なことになります。
「なぜこのような判断だったのか」という問いに対する答えは医療者にとって容易に出てくるものです。医療というのは論理で行われるものですから、カルテなどを見ればそのとき何故自分がそのように考えたのかを説明するのは容易なのです。しかし患者さんにとっては医者の論理的説明など初めから聞く耳は持っていません。本の記載と知り合いの医療者の権威付けがあるのですから、相手が「ミスをした」ことを認めない限り「納得できない」の繰り返しになります。
医療者がどんなに懇切丁寧に説明しても「本の記載と違う」「知り合いの医者もおかしいと言った」「納得できない」の三点セットが繰り返されるようになり、ただでさえ多忙な医療者はさすがにいらだってきます。患者側は行動の原点が「論理」でなく自分が苦しい状態にあることによる「感情」にあるのですから医療者側の「感情」が出てくれば自然とヒートアップしてきます。「ははあ、やはりやましいところがあるのだな。」と患者側は確信してしまいます。
医療者側の力量が試されるのはこの段階です。ここで対応を誤れば問題はこじれて一機に裁判まで持ち込まれる可能性があります。暴言などがあっても我侭や金目当てのモンスターペイシェントと同様の法的手段といった対応はこの場合行うべきではないでしょう。いかに理不尽なクレームであっても患者さん側は確信を持って自分が正しいと考えていて、しかも苦しんでいる原因の答えを出すことにエネルギーはいくらでも注げる用意があるのですから。この段階になると「医療ミスを認めさせることは、今後自分と同じ苦しい思いをする人をなくすための正義の戦いである」というところまで思いを高めてしまっている人が殆どです。
医療裁判においても「真実を出しなさい」という言葉は「ミスを認めなさい」という言葉を言い換えたものだといわれますが、患者側にとっての「真実」とは実際はどうかではなく「医療ミス」以外にはありえないのです。なぜなら苦しい思いをしている理由を求めることがそもそもの動機であり、ミスはない、という結論では「なぜ自分が苦しい思いをしなければいけないのかに対する答えが出ない」という振り出しの状態にもどってしまうからです。論理的な判断によって医療者側が無罪になってもマスコミは「法の壁」「医療の壁」を突き崩すことができなかった、などと真実よりも患者側の主張が通らなかったのは不正義として報道するのですが、論理的に真実が明らかになったと何故報道できないのかいつも不思議に思います。
この段階で医療者側のとるべき対応はまず一度話し合いを切り上げることです。その際この場を収めるために安易に「ミスがあったことにしましょう」的なことは絶対に言ってはなりません。日本の政治家はありもしない従軍慰安婦問題を「日本が悪かったことにしてこの場を収めましょう」といったためにその言質をとられて既成事実とされ日本の罪悪として延々謝罪や補償の対象とされてしまいました。ミスがないのにミスがあったような形で収めることは医療者として絶対にやってはいけないことです。
医療者としてはこの精神状態になっている患者さんに対して、その苦しい胸のうちを十分理解してあげることが大事だろうと思います。感情的にならず、あくまで論理的に説明することが大事なのですが、必要があれば患者さんが信頼する冷静な第三者の人をまじえて改めて説明する機会を設けるなどの対応が望ましいでしょう。「病気で苦しい、苦労していることを誰かのせいにしようとしても何の解決にもならない」ことを患者さん自身に悟ってもらわなければ根本的な解決にはならないのですが、これは短時日には解決できない困難な問題であろうと思います。悟ったとしても患者さん側には解決のつかない苦しい思いだけが残るのですから、残念ながら多くは医療に対する不信が残って終わることになるのが現実と思われます。