rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

テレビ評NHKヒューマンドキュメント「ふたりの14歳」

2009-11-06 19:10:24 | その他
テレビ評NHKヒューマンドキュメント「ふたりの14歳」

[S][文]ふたりの14歳病気の進行との闘い…障害者の競技ボッチャ友情、葛藤、成長するふたりと親子の物語
チャンネル: 3ch : NHK総合_放送日時: 11月5日(木) 22:00-22:45_Gコード: 29211

[詳細] ふたりの14歳_障害者のために考案された競技「ボッチャ」を通し、互いに成長していく親子の日々を伝える。愛知県在住の中学2年生、松永楓さんの親子と、高阪大喜君の親子は、ボッチャと出合い人生が変わった。松永さんは脳性まひ、高阪君は筋ジストロフィーという病で、日常生活のほとんどに親の介助が必要。親が子を助け、子は親を頼ることが当たり前の親子関係に変化をもたらしたのがボッチャだった。ボッチャとは、目標となるボールにどれだけ近づけたかを競うカーリングに似たスポーツ。試合となれば子供は自らの判断で戦い、親は手が出せない。親子で意見が食い違い、けんかになることもある。やがて子供たちは日常でも自己主張を始める。親は子供の成長を目の当たりにすると同時に、自分の手から離れていく寂しさを感じるという。(http://tv.starcat.co.jp/channel/tvprogram/0432200911052200.html)

<感想>

良いテレビ番組に出会うことは現在では難しい世の中になりました。見ていると明らかにバカになってゆくなあ、と感ずる退屈なバラエティばかりの中で、9時のニュースのあとそのままテレビをつけていたら始まった番組でした。筋ジスと脳性まひの子供が打ち込むスポーツ、ということで敢えて身体が不自由(しかもかなり重度に)な人がスポーツに挑むということがどのように描かれるか、見ているうちにどんどん引き込まれて遂に最後まで見てしまいました。

どちらの病気も知能には障害がありません、だから知能を競う競技ならばハンディを克服して・・と安易に考えるのはやはり自分が部外者だからだなと感じました。一番ハンディのある身体能力をぎりぎりまで使って競技をすることに重度の障害を持つ二人の中学生が、単に10メートルばかり先に玉を転がすだけの競技ではあるけれど、その勝敗で号泣するほど真剣に取り組んでいることに、何か大切なことを気づかされた気持ちがしました。

立ち上がる事もできない子供が、一般社会に対して自分の思いを表現することは、「知能に異常がないのだからできるだろう」などと言えるほど簡単なことではないのです。自分は立ち上がることもできないけれど、自分の身体能力を全力で使って競技という形だけれど社会に初めて自己表現ができた、ということが自分に対する自信につながって社会への「自立」に少しずつつながってゆくのだな、ということが解りました。

立ち上がる事ができない我が子を立たせたい、というのは親心として良くわかります。しかしそれでは現在の自分の姿を親が認めたくないのだ、と子供が感じていることに気づいて、あるがままの「立ち上がる事ができない我が子」をそのまま受け入れようと考え直した、というご両親の言葉にも非常に深いものを感じました。子供が病気を持つと親が成長するというのは私自身にも経験があるのですが全くその通りです。親が子の理想像を作ってしまい、子供をそこにはめ込む、ということはどの親でも犯してしまいがちな誤りでしょう。子供のあるがままの姿を一度認めてから、そこから何ができるかを一緒に考えてゆくというのが大切だと思いました。

この子供目線という視点ですが、この番組のカメラワークが常に二人の障害を持つローアングルの目線で作られていて秀逸です。病気の進行で右手で投げられなくなったので左手で投げるようにした、という高阪君を見て自分も彼と同じくらい自分の能力を引き出すぎりぎりの努力を普段しているか、という点で恥ずかしい気持ちになりました。丹波哲郎氏ではありませんが、「人間はこの世に修業のために産まれてきているのだ」と考えると小さな事に不平不満ばかりを唱えて最善の努力を怠っているようではまだまだ修業が足りないなと感ぜざるを得ません。それに比べて「ふたりの14歳」は大いに修業をしていると思いました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする