Blue Max 1966年20世紀Fox 監督ジョンギラーミン、主演ジョージペパード
前投稿の愛国心に関連した映画とも言えます。この映画には二つの見所があります。ひとつは言うまでもなく実機を用いた空中撮影の迫力、これはCGのなかったこの時代ならではのものだと感心します。実際にはタイガーモスなどの少し新しい機体を使っていますが、上手にローゼンジ迷彩を施して複葉機の編隊飛行をしているだけで十分雰囲気が出ています。とりわけRed Baronと呼ばれたリヒトホーフェン男爵と主人公と貴族のライバルであるウイリーが操縦するFokker triplaneは実機なのでこの姿を見るだけでも感動物です。写真はミュンヘンのドイツ博物館に展示されていた実物のFokker Dr1でまさにRedBaron塗装です。
もう一つは戦争における庶民階級の関わりです。国王を頂点とする「領主の集合体としての国家」同士の戦争が「国民国家」を単位とした戦争に変わってきたのが第一次大戦であり、平民出身のジョージペパード扮するスタッヘルがパイロットとして勲功を上げ、プロシア王国最高勲章で貴族しか得ることがなかった(パイロットや将校は原則として貴族だったけれど戦争後半になって人員不足から平民からも採用されるようになった)ブルーマックス(Pour le Mériteというフランス語名である所がまた貴族的と思います)を叙勲されるに到ります。もともと庶民は徴用されて消耗品として塹壕から突撃して機関銃でなぎ倒されるのがこの戦争における役割だったことが映画の中でも描かれます。しかしあまりの犠牲者の多さや戦傷の悲惨さから「庶民の声」を無視できなくなり、貴族は革命を恐れるようになります。「無名戦士」を記念して庶民に気を使うようになるのもこの頃です。
この戦争に勝ち目はないと見た主人公の不倫相手である貴族の将軍婦人はさっさとスイスに亡命を図りますが、「国家の英雄になること」にこだわる主人公は一緒に亡命することを断ります。この決断が破滅を招くのですが、貴族と平民の戦争に対する意識の違い、戦争における「国民国家」的意識の成立が際立つ場面と言えるでしょう。貴族にとっては国家などどうでも良いというのが本音でしょう。現代の貴族(大富豪達)にとっても国家などどうでもよいものだろうと思いますが。一方で平民出身の主人公を英雄としてメディアで売り出そうとする軍上層部の政治的意図も筋の展開にたくみに取り入れられています。
戦争映画において国民国家意識との乖離が見られるのは植民地の原住民が宗主国の一員として戦争に借り出されている場合です。映画「マルタ島攻防戦」では原住民でドイツに着いた側を「裏切り者」と非難するのですが、「戦争が終わってもまたあなた達に支配されるだけだ」というせりふにイギリス兵は返す言葉がありません。最後に苦戦を強いられたマルタ島島民にイギリス女王から感謝の言葉が出されるのですが、喜ぶのはイギリス守備兵だけで島民は複雑な思いという所を描いています。まじめな映画というのはそういうものだと思います。
前投稿の愛国心に関連した映画とも言えます。この映画には二つの見所があります。ひとつは言うまでもなく実機を用いた空中撮影の迫力、これはCGのなかったこの時代ならではのものだと感心します。実際にはタイガーモスなどの少し新しい機体を使っていますが、上手にローゼンジ迷彩を施して複葉機の編隊飛行をしているだけで十分雰囲気が出ています。とりわけRed Baronと呼ばれたリヒトホーフェン男爵と主人公と貴族のライバルであるウイリーが操縦するFokker triplaneは実機なのでこの姿を見るだけでも感動物です。写真はミュンヘンのドイツ博物館に展示されていた実物のFokker Dr1でまさにRedBaron塗装です。
もう一つは戦争における庶民階級の関わりです。国王を頂点とする「領主の集合体としての国家」同士の戦争が「国民国家」を単位とした戦争に変わってきたのが第一次大戦であり、平民出身のジョージペパード扮するスタッヘルがパイロットとして勲功を上げ、プロシア王国最高勲章で貴族しか得ることがなかった(パイロットや将校は原則として貴族だったけれど戦争後半になって人員不足から平民からも採用されるようになった)ブルーマックス(Pour le Mériteというフランス語名である所がまた貴族的と思います)を叙勲されるに到ります。もともと庶民は徴用されて消耗品として塹壕から突撃して機関銃でなぎ倒されるのがこの戦争における役割だったことが映画の中でも描かれます。しかしあまりの犠牲者の多さや戦傷の悲惨さから「庶民の声」を無視できなくなり、貴族は革命を恐れるようになります。「無名戦士」を記念して庶民に気を使うようになるのもこの頃です。
この戦争に勝ち目はないと見た主人公の不倫相手である貴族の将軍婦人はさっさとスイスに亡命を図りますが、「国家の英雄になること」にこだわる主人公は一緒に亡命することを断ります。この決断が破滅を招くのですが、貴族と平民の戦争に対する意識の違い、戦争における「国民国家」的意識の成立が際立つ場面と言えるでしょう。貴族にとっては国家などどうでも良いというのが本音でしょう。現代の貴族(大富豪達)にとっても国家などどうでもよいものだろうと思いますが。一方で平民出身の主人公を英雄としてメディアで売り出そうとする軍上層部の政治的意図も筋の展開にたくみに取り入れられています。
戦争映画において国民国家意識との乖離が見られるのは植民地の原住民が宗主国の一員として戦争に借り出されている場合です。映画「マルタ島攻防戦」では原住民でドイツに着いた側を「裏切り者」と非難するのですが、「戦争が終わってもまたあなた達に支配されるだけだ」というせりふにイギリス兵は返す言葉がありません。最後に苦戦を強いられたマルタ島島民にイギリス女王から感謝の言葉が出されるのですが、喜ぶのはイギリス守備兵だけで島民は複雑な思いという所を描いています。まじめな映画というのはそういうものだと思います。