rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

書評 韓国併合への道

2010-08-12 00:38:44 | 書評
書評 韓国併合への道 呉 善花 著 文春新書 086 平成12年刊

菅総理が日韓併合100年を記念して謝罪の談話を発表しました。それは日韓併合は倫理的に日本が悪であり、被害者である韓国国民に対して反省と許しを乞うという一方的なものであり、残念ながら日韓の将来に何の良い事も残さないものとなるでしょう。日本の文化は「謝って低姿勢に出れば相手も許して今後仲良くやってゆける」ものであるからそれを期待しているのであり、韓国の文化は謝罪するということは「両者の上下関係が明確になることであり、罪を認めるからにはそれなりの補償をする」ことを期待することです。当然どちらの期待も裏切られる運命にあります。だから真の賢者はこのような謝罪などしませんし、要求もしません。日韓の反目が国益に叶う米中はこのような謝罪を日韓にけしかけますし、愚者はそれに乗っかります。これから先も同じでしょう。

さて、本書の著者 呉 善花氏は公平な立場で歴史の史料を検討し、日本に併合されるに至った韓国(大韓帝国)側の問題点を究明することを目的に本書をまとめた、と前書きにあります。つまり併合した日本を加害者として糾弾することしか戦後韓国は行なっていなかったが、(併合という)国家敗北の原因が何であったかを反省することが、日本人を「過去を反省しない人達」と蔑む自分たちにもできていないじゃないか、ということが出発点になっています。

私も韓国に対する開国要求や西郷隆盛の征韓論などが何故必要だったのか不明ですし、日清戦争後の下関条約で韓国の自主独立を清国から認めさせたのは良かったのですが、その後李朝政府がロシアへ接近するに連れて日本が強く韓国に干渉するようになり日露戦争後のポーツマス条約で日露、桂・タフト協定で日米(米のフィリピン領有)、第2次日英同盟で日英(英国のインド領有)において日本の朝鮮半島の利権を各国に認めさせたことになってゆくあたりは侵略主義と言われてもしかたない部分があると考えます。この結果第2次日韓協約が結ばれて韓国が保護国となり、韓国統監府がおかれることになる訳です。

著者は李朝朝鮮は両班時代においては派閥抗争、開国後は日本、清、ロシア、米国、それぞれの派閥に加えて親皇帝派が入り乱れて統一した開明運動につながってゆかなかったのが(日韓併合への)最大の敗因と分析しています。また一進会の李容九らは日韓合邦推進論者ですが、これは日本による韓国の併合ではなく、あくまで合邦(対等な立場で国が一つになる)を推進していたのであると一定の評価をしています。

私としては日韓併合の日本側の論理からの分析ももう少し読んで見たいと思うところですが、著者はあくまで韓国側から同国の瑕疵を検討することが著作の動機であるということなのでその目的は十分果たされていると思われます。菅総理が主張する反省と謝罪は韓国併合への過程に対して行われるとすればどこの部分に対してなのか、詳しい説明が欲しいところです。
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書評 病院化社会を生きる

2010-08-12 00:35:53 | 書評
書評 病院化社会をいきる(医療の位相学)米澤 慧 著 雲母書房2006年

「人の一生は病院から始まり、病院で死ぬことで終わる」という現代日本。最近では健康な人も病院に呼び込んで「病気にならないため」と称して「高脂血症」などの病名を付けて予防医療を施す。病院なしでは生きられない日本人の現状を「健診」「セカンドオピニオン」「アルツハイマー」「死生観」「医療事故」といった33のキーワードから述べた医事評論です。月刊「ばんぷう」という雑誌のコラムをまとめたものなのでそれぞれが数ページにまとめられて読みやすく構成されています。それだけにやや突っ込みが足りない、著者はもっと書きたい事があるだろうに言葉足らずかなと思う所もあります。

著者の米澤 慧氏は雑誌「選択」で「往きの医療、還りの医療」という医事コラムを担当されていて、私はそのバックボーンのしっかりした医療に対する思想に感銘していました。早稲田大学教育学部を出られて非医療者の立場から医療、看護、生命に関する評論を多数出しておられますが、本書でも千葉大学教授の広井良典氏との同名の対談を収録していて大変読みごたえがありました。端的に言うと「疾患を治癒させることが良く生きることにつながるのが(往きの医療)であるが、治癒を目標にしない医療で良く生きることにつなげる(還りの医療)があっても良いではないか」というのが氏の一貫した提言です。

現在のジャーナリズムの常識では「がん」が治癒しなければそれは医療における「敗北」であり、5年生存率が良いのが「医療レベルの高い良い病院である」と決めつけられてしまいます。これは「往きの医療」からのみの視点であって、がんで亡くなる人が「亡くなるまでの人生においていかに良い生活を送ることができたか」を良い病院であるかどうかの指標にしよう、というのが「還りの医療」の視点です。

「緩和」「癒し」「精神的ケア」「老いの受け入れ」といったことは宗教的生活が日常的でない日本においては必要にせまられないと考えないものです。特に医療においては私が普段主張するように「急性期医療は治って当たり前」になってしまった現在、治らない病気をいかに受け止めるかを主眼においた医療評価というのはすぽっと抜け落ちている分野のように思われます。だからこそ氏の主張、提言は現代社会において重要であり、これだけ医療が発達して国民が医療の恩恵を十分にうけていながら医療に対する満足度があまり得られない原因になっていると私は感じます。

良く生きるためには「往きの医療」が良いのか「還りの医療」が良いのかは患者それぞれの状態によって異なります。限られた医療資源を有効に使うために、また何より「良く生きる」ために「往きの医療に全勢力を費やすのが良い」時代はもう終わったと私も思います。

実はこのパラダイムシフトは医療だけでなく、社会や経済においてもあてはまるのではないかと思われます。広井氏との対談の中でも語られていますが、常に高度経済成長の発展型社会でないと「失われた20年」などと表現される日本ですが、北欧型の成熟した「定常型社会」を目指す事で日本人は十分幸福に生きられるのではないかと提言されています。今「成長著しい中国を見習え」などという掛け声がさかんに聞かれますが、本当に日本は80年代のような高度経済成長を続けていないと不幸だと誰が決めたのでしょう。建設や製造業の景気が悪いと就職先がないという社会構造がおかしいのであって、福祉、サービスや科学技術の研究分野、はたまた農業などでもっと若い人が働ける社会構造であれば別に高度経済成長型の社会でなくても日本人は幸福になれるのではないかと強く感じます。

6月の学会出張の際にミュンヘンの近郊、ローゼンハイムの牧畜業を営む友人を訪ねました。主人は小生と同じ年(52)、80代後半の父君も健在、二十歳の息子は牧畜業を継ぐために専門学校在学中、長女は大学を出て就職で家におらず、次女は中学を出て銀行勤め、実際には中学出の次女が一番英語が上手くて私との通訳も勤めてくれたのですが、アルプスに近い美しい土地で農業を実に楽しそうに親子三代でやっているのですね。中学出て社会に出て働いている娘も実に充実していて高校に行っている小生の愚息達よりよほど英語力も社会力もある。日本は大学に行かないと不幸だ、良い会社に勤めないと不幸だ、田舎で農業をやるなどというのは社会的に行けてない、といった根拠のない決めつけに自縄自縛になっていると言えます。もっと各人それぞれに良く生きる生き方がある方が成熟した社会と言えるように思いました。

秋に主催する学会に米澤 慧氏を招聘して講演をお願いする予定にしているのですが、今から直接お話を伺うのを楽しみにしています。
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